てくてくと歩き、行きつけのベーカリーが開いているかを確かめて、ふう、と息を吐く。クローズの看板がかかっていたら、顔をしかめるし、店の外にまで美味しそうなパンの匂いが漂っていたら頬が緩む。そして私はまた歩き出す。

寒かった日のことはよく覚えていないが、すくなくとも春は花粉が酷く、夏は暑かった。斜め先にある、ビルが目的地だ。エレベーターに乗って、心療内科と書かれたドアを開け診察券を出す。月が変われば保険証も。診察を受け、薬を処方してもらい、帰りに自分への小さなご褒美としてパンを買うことを許す。これが、私の日常に組み込まれたルーティーンである。

精神疾患を抱えて生きること

医療費(とパン代)はじくじくと私の財布にダメージを与えるが、自立支援医療制度のお陰でどうにかなっている。この制度を知ったとき、はじめて税金納めていてよかったなと思った。制度を知らなかったように、「精神疾患」を抱えて生きることについて、当事者になるまでわからなかったことがたくさんある。

まず、抱えて生きること自体に抵抗があった。通勤途中に嘔吐したり、職場で泣いたりしていても、「自分は“違う”」、「私がそんな“ふう”になるわけがない」と頑なに健康であろうとした。
友人に幾度か診察を勧められていたが、大丈夫、大丈夫と聞き流した。何の根拠もなかった。それは、実のところ精神疾患を抱えた人への見下しであったと思う。無意識に「弱者になりたくない」と思っていた。

しかし、まるでコップにひたひたになるまで入った水が僅かな振動で溢れるように、ある日「もうダメだ」と判った。感じた、というより判ってしまった。誰も居なくなった職場で鼻水を垂らしながらタクシーに乗って、電車でもうずくまって泣いてとにかく「もうダメ」だった。
翌日、診察室で、また子どものようにしゃくりあげ医師にすがっていた。
この時、ようやく自分が少しだけ「弱くあること」を許すことが出来たのだと思う。

他人より弱い自分が恥ずかしかった

しかし、「弱くあること」を表面上の自分が許しても、心の奥底の自分と周囲が許すかというとまた別の話である。

心の奥底の自分は意地悪だった。診断を受けてしばらく、夜中、恋する乙女の花占いのごとく疾患乙女の病み占いに精を出していた。
「私が悪い/悪くない」「私は弱い/弱くない」……。
思考の花びらはいつも決まってバッドエンドだ。自分より、もっと苦しんでいる人だっているはずだ、そういう人たちだって電車に乗って毎日耐えて働いているんじゃないか?私はその人たちと同等の、いやそれ以上の苦痛を味わったのか?そう思うと中々自分を許せそうになかった。

私は、他人より「弱い」自分が恥ずかしかった。

時間をかけて思考を整理して

もちろん、未だに自己との戦いに決着がついたとは言い難いが、私を癒したのは時間であった。ベッドから起き上がり、人と対話し、本を読み、こんがらがってしまった思考を整理していった。
劇的な瞬間や、出来事があったわけではない。少しずつ、少しずつ、溺れる人間が息継ぎを覚えるように他者と比較しても意味がないこと、人生の価値は自分でしか決めるしかないことを学んだ。

しかし、自分が自分を許そうとしても周囲の目は厳しい。
見た目には分からない心の問題は理解されにくく、病気であると認識されないことも多い。

中でも1番刺さった言葉は、親からかけられた「どうしたらいいんだろうねえ」だった。
心配してくれている、けれど同時に存在を持て余してもいる眼差しが痛かった。表情筋が死に、目が虚になって、その後に続いた言葉は思い出すことができない。その解答を私が持っていたら通院の必要はないだろう、と黙ってその場で呼吸だけをする置物になった。

親の視線を受け止めながら、いつまでも病院にかかろうとしなかった自分の数ヶ月を思い出した。あれは、「弱い」自分を持て余し、存在を認めようとしなかった時間だったのだ。そして、かつての自分は親と同じように「弱い」人を持て余してはいなかっただろうか。

「弱者」の存在を認めてほしい

人は突然「弱者」になる。本当は「弱さ」という言葉で自分の持つ疾患を語りたくはなかった。私はこの言葉が嫌いだ。だって、「強い」「弱い」は比較の言葉だから。誰かと比べて「弱い」と言われているのだから。

けれど、世間では「メンタルが強い・弱い」「ストレスに強い・弱い」という言葉が横行している。だから、敢えてこの言葉を使い、叫ぶ。

「弱者」の存在を認めて欲しい。

理解してくれ、分かってくれ、とは思わない。私だって、誰かの苦しみや痛みを理解することは出来ない。神さまじゃないのだ、私たちは相手の苦しみを理解して取り除くことなどできはしない。
けれど、ただ、そこにいることを許してくれ、と願う。「そうである」状態を受け入れてくれ、と。