小学生の水泳大会。私は、平泳ぎの50メートルの種目に出場した。この大会は小学6年生だけが参加できる恒例の行事だったから、とても気合が入っていた。
いざ私の番になると、大きく息をすいこみ、遠くまで蹴伸びできるように強く壁を蹴ってスタートした。出だしは順調であった。タイムを上げるためには、息継ぎの時間を短くする必要がある。だから私は必死で、口をタテに大きくあけ、短い時間で空気をたくさん吸えるようにした。
狙っていた1位をとれたけど
泳いでいる間、「良い感じだ、これは1位を取れる」と思った。結局、私は1位になった。必死だった私は、嬉しくて仕様がなかった。気持ちよく水から上がりプールサイドを歩いていると、私の気になっていた男の子が私に放った言葉があった。
「お前の息継ぎをしている顔がひどかったぞ」
素直におめでとうと言ってくれるのを期待していたから、とても衝撃だった。その瞬間、私の体にまとわりついていた生温くなっていた水は、一気に凍り付くような温度の水に変わった。
私は、すかさず(悔しいのと恥ずかしいのとで)「あんただって、息継ぎの顔やばかったよ」と、言った(実際は見ていないけど)。そうすると男の子は笑っていた。
そこまで男の子は私がショックを受けているとはわかっていなかったし、私を傷つけようとして言った訳ではなかったらしい。けれどその時から、私は男子の目を気にするようになったのだ。中学に上がっても、特に体育の時間などで男子の目を気にして、全力で走ったりするのを避けていた。
全力で走っていた「女の子」
時は過ぎて今に至る。私は秋から、アメリカ・ネバダ州の大学に通っている。私のとっている授業の中でWomen's study というものがある。フェミニズムがどう始まり、今の社会にどう影響しているかを学んでいるのだ。
150年以上、女性は平等を求めて活動をしてきているにも関わらず、いまだに男女平等は課題なのだ。
先週の授業であるビデオを見た。
小学生の女の子と女性、小学生の男の子と男性に、女の子らしく走ってみてとビデオの前で頼んだ。すると、女の子以外は手を横に振ったり内股だったり、髪の毛を気にしながら走るという素振りを見せた。しかし、女の子だけは全力で腕を振って走ったのだ。ビデオを撮っているスタッフが女の子に尋ねた。「あなたにとって女の子らしく走るとはどういうこと?」と。すると女の子は「自分のできる限りの全力の走りをする」と、答えたのだ。
女の子の言葉を聞いた瞬間、私は全力で走る女の子に対して震えた。また、私は素敵だと思った。それと同時に、私は小学生の頃の水泳大会を思い出したのだ。あの頃は、何も気にせず全力で泳いでいたと。
「~だから」の型にはまっていた
いつから異性の目を気にして全力で取り組むことをやめたのだろうか。いつから私は型にはまってしまったのだろか。女の子だから、息継ぎの顔がひどかったらいけないとか。「~だから」という型に、自らはまりにいっていたのだった。
これは「女の子だから」という型だけではない。「男の子だから人前では泣いてはいけない」「大人だから」「子供だから」「世間から見たらこうでなくてはいけない」とか。
そんな型から抜け出そう。ただ私がやりたい、こうしたいと思うことをすればいいんだ。全力で。私がクラスで習った、アメリカでフェミニズムの運動に関わっていいた女性たちもそうだ。全力で、こうしたい!という実現に向けて奮闘し、信念を貫いたことで女性が投票する権利を得た。そこから、あらゆる分野で女性が活躍する場の機会が広がったのだ。
これをこうすれば正解だ!という型なんてない。ただ自分自身に後悔がないと思うことをする。型から抜け出せ。その瞬間動き出すのだと。