私は女の人のからだがとても好きだ。
そこにしかない美しさがあるからである。

私は趣味で写真を撮っている。ともなると度々、女性のセミ・ヌードが撮りたくなる衝動に駆られる。すべてを露呈しない、薄ぼらけの中で光かがやく貝殻の裏側みたいな女性の肌とその曲線を、写真に収めたくなる。刺激の強いものを口にふくみすぎて、芸術と本能という歯の合間に挟まったニラみたいなだらしのない――ただ女性の身体をモノにしたいという私の、純度だけはいっちょまえに高い欲求だ。

そんな欲求はいつしか男性が見るために作成されたアダルトビデオに向き、人の目が届かない場所、だいたいは自室で一人きりの時、ゆっくりとそれを鑑賞する。男女の凸凹が湿るシーンの需要は二の次で、大抵、女性のきれいなしなりのある身体に目がいく。
私みたいな人間は、いたとしても少数だと思う。少数だと自覚しているから、なるべくひっそりとこの欲求と衝動を内に秘めていよう、と一応の努力はしている。

潜在意識の中に凝った“女性への欲求”が夢に現れる

このコンプレックスといえば響きの良い、恥部にも似た部分を抱き続けてかれこれ数年。
女性が好きだという自覚は高校生の頃からあり、実際に女子と付き合った経験もある。あの頃は無知ゆえに何も出来ず終わった。それでよかった、と心底安心している。何も出来ない、愛情を持て余した十代の頃を無事通り過ぎることが出来て良かった。間違っても渋谷や新宿のホテルになんか行っちゃいけなかった。それだけははっきりといえる事だと、今でも思う。

それでも私は、夢で女を抱くのだ。潜在意識の中に凝った“女性への欲求”が、いちばんきれいに映し出されるのが夢なのである。
夢から這い上がってきた時、私は舌の上に唇のつるりとした感触を覚えている。今しがたの感覚だ。ああ、そういえばキスをしたんだった、と思い出す。とてつもない罪悪感が心を満たす。満たされているのに、とても気持ち悪くて、悲しい。さっきまで確かに満たされていたはずなのに、世界の終わりとも思えるほど、私はもう生きた心地がしなくなるのだ。急転直下、現実と虚構。私のマイノリティだけは、変わらないままそこにある。

恋とか愛とか欲とかへの気持ちは、ずっと宙ぶらりんになったまま

懺悔の夜が始まる。同性である女性を欲目で見ることは理解されないと思っているし、見られたくない本当の姿だ。私から恋愛対象で見られた女性は、私という女をどう思うのだろう。直視出来ない心のしこりとして、それはいつまでも残る。
私たちはきっと「友達」という選択肢を取ることだって出来たのだ。なぜ、得体の知れない胸の高鳴りを抱いてしまうんだろう。羽根虫が太陽に向かって突進していく時みたいに、潔く昇華できればいいのに、まだずっと私の中で重くのしかかったままで、一体全体どうすればいいのか分からない。私は私をどう適切に扱えばいいのか分からないまま、私の気持ちはずっと宙ぶらりんになったままだ。

いっそのことすべてを信じて、思い切った行動が出来たならばと思う。
高校時代、若さゆえにどんなものにも臆せず、振り切った恋が出来たように。それは少なくとも私たちにとっては断然・恋だった。それ以外の何ものでもなかったという確信があった。大人になってしまった私は、あの頃を生きた術を忘れてしまった。はきはきと、明るみで誰かを好きになることが出来なくなってしまった。それが何よりも悲しくて、私の恋にまつわる人生をつまらなくしている。
勇気が欲しい。くやしい。私ももう一度、恋をしてみたい。好きな女(ひと)の身体に触れてみたい――。

自由に恋をする人生を生きていきたい

懺悔とは、ただただ謝り、罪を贖い続ける人に限定された行為である。
本当は懺悔なんかではなく、自分を肯定してあげた上で、「それでも」とか「しかし」とかそういう強い逆接詞を付けて生きていきたい。懺悔の日々から抜け出して、羽根虫を見習って明るみに突進していきたい。そして羽根虫だって、もう一度恋をしたい。

夢に出てくる女の人のことは、起きてから一時間ほど経つと忘れてしまう。
私は懺悔をする日々もそのスピード感で忘却していって、何にも縋らず絡め取られず、自由に恋をする人生を生きていきたい。

本当に美しい曲線は、自由になった私の前で待ち構えてくれるはずだから。