大人になれば、好きな人と両思いになって、自然と恋人同士になるもの。
少女の頃、私はそう思っていた。その「大人になれば」が29歳になった今でもまだ来ていない。
目の前に男子が現れた大学入学
いまだに、私は男性の前でどう振る舞ったらいいかわからない。
その原因はたぶん、小学校からずっと不登校だったことにあると思う。男性と言えば、父親か、映画やドラマに出てくるイケメン俳優くらいしか知らずに育った。
それが大学進学を機に、一気に目の前に男子が現れた。初めての学校だけでも緊張するのに、初めて男子と机を並べ、学ぶ。そんな中で、好きな人もできた。でも、好きな人にはいつも彼女がいる。好きな人の彼女に簡単にはなれない現実に、悔しさばかりが募った。
学年も進級するにつれ、人間関係も固定化していく中、どんどん自分の殻に閉じこもっていった。こうして、私は完全に大学の恋愛市場から出遅れたのだ。
あざといくらいが可愛いと書いてあった
そんな私にも、26歳になって初めて彼氏ができた。
嬉しいよりも、焦り戸惑った、とりあえず、女性向けのサイトを検索し、「本命になれる女子10の特徴」みたいなものを参考に、付け焼き刃のぶりっ子をしてみることにした。元から清楚とカテゴライズされていた服は好きなので、ここぞとばかりに大人しい癒し系を演出することに気を配った。これでいいの、男には、あざといくらいがちょうど可愛く見える。そうネットに書いてあったのだからと、自分に言い聞かせた。
しかし、「演出」しては見るものの、演技はぎこちない。「実はね、〇〇なんだよ」と彼が知識を披露して「へえ、そうなんだ知らなかった!」と言ってみる。「その話、もう3回目だよ」なんて本当のことは言ってはいけないと思うほど、彼氏にうんざりしていく。
結局、その彼には3ヶ月くらいで別れを告げた。いつもの自分とはかけ離れた存在を演じるのが、自分でも嫌になってしまったからだ。ネットでモテ情報をあさり、作りあげた私の清楚ぶりっ子は、まるで砂で作った人形のように脆かった。
彼にとても悪いことをした、という後悔の念しか残らなかった。好きな気持ちよりも、「この人といる自分は果たしておかしくないのか」という疑問で頭がいっぱいになっていて、全く彼のことを考えていなかった。なんて失礼な付き合い方をしたのだろう。
結局、28年間で付き合ったのは一人だけ。その後はデートをしても上手くいかず、疲れて出会いを求めることも億劫になってしまった。
でもやっぱり「私は恋愛がしたい!」
なぜ、ありのままでいることはこんなに難しいのだろう。もう29歳になった。いいかげん、世間の女性たちのように普通にデートして、普通に男性の前で女の子らしく振る舞ってみたい。
でも、この「普通」とは何だろう。私のどこが「普通」ではないのだろう。あざとくなり切れないところか?奢られてもかわいく「ごちそうさま」と言えないところか?
自分が欲しい答えは、ネットには落ちていなかった。思わず行き着いた先は、恋愛は絶対しなくちゃいけないことはない、という意見だった。できない事はできないままでいい。恋愛より熱中するものをみつければ幸せと思えば、確かに心に安定をもたらしてくれそうだ。そう思うと確かに「普通」の恋愛ができる女の子を模索するのがバカらしくなってきた。
しかし、心は勝手に恋をするのだ。実らない、実らせ方がまるでわからないにもかかわらず、恋愛感情はひょんなことから顔を出し、無視できないまま膨らんでいく。そんな私にとって「恋愛をしない生き方」は、意識的に恋愛対象を避けるかなり苦しいことになる。それは恋をしない人が無理に恋人を作ろうとすることと何ら変わらないのではないか。
だから、私はやはり「違うんです!私は恋愛がしたいのです!」と心の中で叫ぶ。今まで片思いのまま終わって悔しかった気持ちや、束の間だけど元彼と両想いになれた記憶を思い起こすと、もう一度あの甘くヒリヒリした感覚を味わいたいと渇望しているのもあるかもしれない。
あれ、もしかしたら、この気持ちが大切なのではないか。自分の殻に閉じこもり、目の前の好きな人ではない空疎な「男性」を想定しすぎていた私は、完全に自分の思いも置き去りにしていたことに今更ながら気づいた。考えてみれば、いつまでも男性に慣れないというのは、裏を返せばいつでも純粋な気持ちで恋ができるということでもあるはずだ。
拙くても、可愛げなんてなくても、おどおどして相手に嫌われても、もしかしたら一生素敵な恋なんてできなくても、私のままで恋愛を諦めない。人生を彩る高揚感を、私にいつまでも持たせてくれるのかもしれない。