推し

便利すぎるこの二文字は色んな場所で使われている。
ファンがアイドルに対して使っているのが、一番思い浮かびやすい例だろう。そこには「憧れ」や「崇拝」の気持ちが含まれていて、好きを超えてあなたを支えて応援します、という無償の愛が注がれているように感じる。

サークルの先輩を好きになって

では、女性が身近な男性に対して使うとき、それはどんな意味を持つのだろうか。

私は「推し」と読んでいた好きな人がいた。
2つ上の先輩だった。初めは、私が中々サークルに馴染めないのを助けてくれて、親身になって話を聞いてくれた。大学になってできた初めての好きな人だった。

周りには絶対に言えなかった。
人望も厚くて、彼のことを「推し」といって慕う女の先輩も何人かいた。そんな彼女たちの視線は非常にハートに満ちていた。そんな慕われている人を(しかも女性の理想が高い)、私が「好き」といって勝ち目がないことは明らかだった。しかも私はサークルでいわゆる「変な奴」「何でも好きなことずばずばいうやつ」「キツめ」キャラとしっかり認定されていた。
だから私は、「推し」として周りと気持ちを共有することでどうにか落ち着かせようと必死だった。あなたへの気持ちは、無償。見返りなんて求めてないからと。

でも限度があった。やっぱり言わなきゃ気がすまなかった。
しっかり玉砕。ご飯にさえも一緒に行ってくれなかった。見えていた悲しい未来を、見ないようにして遠回りした結果、「推し」とか言って騒いでいた自分に対するみじめさと恥ずかしさだけが残った。
その後も同じような失敗をもう一度繰り返し、どんなに友達に励まされても、「負け組」の看板をぶら下げて自分は歩いているのだと、中々立ち直ることができなかった。尾を引いて3年くらいは看板下げっぱなしだった。

現在は様々な苦闘を繰り広げつつ(話が長くなるので以下省略して)なんとか恋人もできて、この看板を捨てることができた!と自負していた。

「推し」を「好き」と言わずに逃げる

この前、久しぶりにサークルの後輩の男の子と話す機会があって、話題は私の同期のある女の子の話に。
彼女は在学時代によく「推し」を作りたがって、「推し」と連呼していた。それを就職した職場でもまたやっている、という話だった。するとその後輩は
「うわ、出た。そうやって<好き>って言わずに逃げてんだ。ダサいな~」
と一言。

その途端彼女の今までの行動に対する嫌悪感がどっと広がった。
サークル内に彼氏がいるにも関わらず、彼女は違う男に「推し」といってべたべたしていた。在学中は違和感があったものの、何も思わないようにしていた。でも圧倒的に彼女の発言が理解できなくて聞かされるたびになんだかもやもやした。

「推しだわ~マジ好き」
そう言いながら、相手の男の子に向ける視線は好きな人に向けるソレにしか見えないんだよなあ。推しとか言って、彼氏とうまくいってないだけでしょ。そんな心の中の声が口から出て来ると同時に、自分の封印していた思い出が一気によみがえった。体感時間では30分(多分実際は5分位)、彼女の大学時代から続く「推し連呼」について私は後輩に乗っかって言うつもりのなかった悪口を言い続けてしまったのだった。

私の方が100倍ダサいだろ!
飲み会が終わって後輩と別れた瞬間、人の気持ちを軽んじた自分を責めた。
自分は好きだと公言できずに「推し」と呼んで騒いでいたのに。言ってもどうにもならないと思って好きと言えなかった、つらい思いをしたのに。ダサいだなんて終わらせられない「好き」や「憧れ」や「尊敬」があるかもしれないことをわかっていながらも、私は同族嫌悪的に彼女のことを必要以上に責めてしまったのだった。彼女の行動に助け舟を出して上げれる余裕が自分になかったことを反省し、トボトボと最寄り駅から家路についた。

私は帰り道に落ち込みながら、こうしてエッセイとして昇華することで気持ちにけじめをつけなければならない使命感にかられ、今に至るのであった。

推しという言葉には、向こうの愛情を求める要素が見られない、好きよりも簡単に相手に伝えらえる便利な言葉だと私は思っている。でも身近な人で「バイト先の〇〇は推し」とか「サークルの〇〇君は推し」だと言う人々が、みんな私と同じ意味で使っているわけではないだろう。

その人なりの「推し」方がある。

それを踏まえて、ぜひともみんなで「推し」論議をしようじゃないか。