おっぱいが、凹んでいる。
わたしのおっぱいは、凹んでいる。
えっちい雑誌や動画に出てくるおねえさんの先端のぽっちりがないのである。
まるで、小高い丘のような。
なんの障壁もないおっぱいの山頂。
もし本当の山だったら、なんて簡単に登頂できてしまうだろう。
えっちいおねえさんのすごいぽっちりじゃなくてもいいから、せめて人並みのものがほしかった。
せめて、ふつうのおっぱいがほしかった。
おっぱいのぽっちりがないことは、大した問題じゃなかった。
自分のおっぱいが他と違う形状をしていることは、ずいぶん小さい頃から知っていた。
母親という自分以外の”オンナ”がそばにいて、差異に気づかないほど鈍感ではない。
彼女のおっぱいには、それは立派なぽっちりがついていた。
なぜ遺伝しなかったのか、不思議なくらいである。
無邪気だった頃のわたしは、大人になればぽっちりは生えてくるものだと、信じていた。
心の底から、信じていたのである。
この世に生を受けて、25年。
そんなぽっちりが突然生えるなんて奇跡は、今のところ起こっていない。
きっと、この先もずっと。
制服を着ていたころまでは、おっぱいのぽっちりがないことなんて、大した問題じゃなかった。
家族以外のだれかにおっぱいを見られることなんて、修学旅行のお風呂くらいしかなかったし。
当時はずいぶんと大人しい子供だったので、おっぱいを茶化し合うことなんてあり得なかったし。
なんてことは、なかったのである。
おっぱいが、凹んでいるなんて。
はじめてだれかと、肌を重ねるその時までは。
“オンナ”としての欠落を感じた瞬間。
わたしのはじめてのお相手は、自分の倍ほど生きてきたおじさまで、20そこそこの小娘に場をコントロールする隙なんて与えられるはずがなく。
されるがままに、コトは進んで。
わたしの小高い丘も、当たり前のようにおじさまの手に侵食されていった。
その時、おじさまが言ったんだ。
「あれ、凹んでるの?」
一瞬、なんのことを訊かれているのか、わからなかった。
おじさまはしばらくわたしの小高い丘をこねくり回して、こう続けた。
「うーん、出てこないねえ」
そらそうだ。
そんなことは、わたしが一番よく知っている。
ぽっちりの存在を、凹みの奥底まで探し続けてきたのだから。
今更、なんだっていうんだ。
わたしのおっぱいには、はじめからぽっちりなんてないのに。
おじさまは最後まで、納得がいかないような、煮え切らない顔をしていた。
この時はじめて、自らの“オンナ”としての欠落を感じた。
背中のホックに手がかかったら、凹みの自己申告をする。
それ以来、だれかの手がわたしの小高い丘に登りはじめる前に、凹みの自己申告をするようになった。
背中のホックに手がかかったら言う、お決まりの台詞。
「わたし、おっぱい凹んでるの」
反応は、様々だった。
「え、そんなことあるの?」
「感じたら出るんじゃなくて?」
「はじめから?ずっとそうなの?」
みんな、不思議そうな顔をしていた。
会ったこともない彼らの過去の女(のぽっちり)を思い浮かべて、勝手に比べて、(気持ちまで)凹む日々が続いた。
心を守るための、自己防衛の自己申告が、日に日に虚しく感じられた。
彼は、わたしのおっぱいについて、なんにも訊かなかった。
今年の春、中学の同級生と再会した。
実に、10年ぶりの再会だった。
彼はピュアを擬人化したような人で、とても真っ直ぐに目を見て話す人だった。
彼に惹かれて一夜を共にするまで、そんなに時間はかからなかった。
その夜も、お決まりの台詞を言う準備をきちんとして、わたしは彼に身を委ねていた。
「わたし、おっぱい凹んでるの」
わたしの台詞は、いつも通りだったとおもう。
ただ、彼の口から出た言葉が、わたしの想像していたものとは違っていただけ。
「へえ、そうなんや。恥ずかしがりやねんな」
間違いなくこの日、不思議そうな顔をしていたのは、彼ではなくわたしの方だったとおもう。
彼は訊かなかった。
なぜ、おっぱいが凹んでいるのかと。
彼は訊かなかった。
ずっと、おっぱいが凹んでいるのかと。
彼は訊かなかった。
わたしのおっぱいについて、なんにも訊かなかった。
そんなことより。
だいすきだって、抱きしめられた。
わたしは、おっぱい呪縛に囚われていた。
わたしはこの日、やっと凹んだおっぱいから解放されたんだと、おもう。
彼の、ある意味でおっぱいとかぽっちりとかに興味のないところに、わたしは救われた。
救われてはじめて、自分がおっぱいに縛られていたことに、気づいた。
雁字搦めになって、知らぬうちに溺れかけてた、おっぱい呪縛。
凹んでいるから、なんだ。
悪いことなんて、してないじゃない。
もう一度、言おう。
わたしのおっぱいは、今日も凹んでいる。