お笑い芸人養成所、あるいはモンキーパークのような愉快な高校を卒業し、それぞれが大学という荒野に足を踏み入れて数ヶ月が経ったころ(私たちはさながら唐突にアマゾンに放り出されたシマウマの子供のように、社会というものに戦々恐々としていたのだ)、高校の友達と集まるといつも話題の俎上に上るテーマがあった。それは、「なぜ大学の友人たちは自虐をしないのか」ということだ。

「そんなことないよ」とたしなめられ

高校時代、私たちは高確率で自虐をし合い、それがコントのように成立していたのだが(しかも根底にはそんな私たちなんやかんやで最高だよね!みたいな謎の自信が横たわっていた)、大学の友達とのコミュニケーションの最中に自虐を用いると自虐を返されずに一人だけすべって終わるというパターンが高確率で発生していた。

「そんなことないよ」と真顔でたしなめられたときの痛々しさたるや、言葉で表すのは不可能だ。心境で言うと、笑点で一言ネタを披露したものの歌丸師匠に完全にスルーされてしまったくらいのしんどさである。せめて座布団を回収してくれたらまだ楽なのに。

わたしはこの謎現象に頭を抱え、何度も高校の友達と対大学友作戦会議を開いたものである。何度も議論を重ねた結果、たどり着いた結論としては「なんかよくわからんが世の中の大学生はみんな相当自己肯定感が高いらしい」というものだった。しかしなぜ高いのか、なぜ自分たちがこんなに自虐をしてしまうのかについては、当時は考えても答えを導き出すことはできなかった。

女子として不完全だと思っていた

いまならわかる、世の中の大学生の自己肯定感が高すぎたのではなく、私たちの自己肯定感が低すぎたのだ。

私たちの学校は中高一貫の女子校だった。

異性からのジャッジもなく、性別によるステレオタイプの押し付けもなく、のびのびとありのままで過ごすことができた。未だにどの卒業生も口を揃えて「あの頃は本当に楽しかった」という、そんな素敵でかけがえのない6年間。

しかし私たちの多くは、異性から愛されることが必要だと無意識に思っていたから、恋愛を通した承認を得られないということに、何処かで強烈なコンプレックスを抱いていたのだと思う。だから無意識に、自分は不完全だという烙印を刻んでいた。でも、そんな自分を肯定したかった。だから互いの傷を舐め合って、痛みを和らげ合った。それが、私たちにとっての自虐というコミュニケーションだった。つまり自虐とは、シマウマたちなりの必死の生存戦略だったのである。

その証拠に、私たちはよく、大学に入ってからの自分たちのことを「女子大生に擬態した」と表現した。ただの「擬態」。「女子大生」になりきれない私たち。卒業後に再会したら第一声は「彼氏できた?」。やっぱりここでも滲み出る、強烈なコンプレックス。「私たちは一人前の女子ではない」という、暗黙の共通認識。

シマウマで何が悪い、のんびり生きていこう

異性愛至上主義。青春至上主義。「中高生で恋愛を経験しないといけない」という、目に見えないルールブック。世界がずっと広がった今なら言える、そんなものは誰かが勝手に作り出した幻想で、私たちに適用させる必要はないのだと。誰もがそれぞれの価値観で生きていっていいのだと。

確かに恋愛は人間を成長させてくれるものではあるが、絶対にしなきゃいけないものではないし、それ以外に視野を広げられる経験はいくらでもある。実際私たちは、たくさん泣いてたくさん笑って、あの時あの空間でしかできなかったプレシャスな経験を、感情を、何度も何度も味わったではないか。そんな美しい思い出をたくさん抱える私たちが不完全だなんて、そんなはずないじゃないか。それらの経験を差し置いて「自分はダメだ」なんて、そんなこと思わせてくる社会がずっとダメじゃないか。

そう気がついたわたしは、自虐するのをピタリとやめた。わたしはもう、自分を否定する必要なんてないのだとわかったから。シマウマでいることの何が悪いのだ。堂々と草を食んで、のんびり生きていこうじゃないか。

それでも未だに気を抜くと笑いを取るために自虐をしてしまう瞬間があって、いつも帰りの電車で罪悪感に苛まれる。それでもこうして書くことで、改めて自分に宣誓をしている。わたしはもう、自虐をする必要はないのだから。

ペンネーム:沙波

フランス語と文学理論を学ぶ大学生。この前までスイスのジュネーブに留学していました。本と映画と美術館がすき。最近のブームはエヴァ。
Twitter:@sawa_lamer