わたしは、中学生の頃上京した。
もう、10年以上前になる。親の転勤で着いて行った、それだけの理由。きっかけが就職や進学、結婚の人に比べると、東京に対しての愛情は特にないように映るかもしれない。
でも、わたしにとっては人生の分岐点だった。東京の暮らしが始まってからずっと、心の中には「地元で過ごしているわたしの人生」が流れている感覚があった。
かっこつけて言うと、ふたつの映画の主人公になってる気分。東京で電車通学しながら、地元で自転車通学するわたしを想像したりしていた。

「上京したわたし」は、人生のいろんなことに対しての言い訳になっていた

方言をからかわれて、なにかと「東京生まれじゃないんだ」と言われていたけど、当時はそれにふてくされるような顔をしつつ、決して嫌ではなかった気がする。みんなと違う私に少し酔っていたし、言ってみればみんなと違ってていいんだと思っていた。クラスのみんなは誰もわたしを知らない、その環境が、何故か心地よかった。新しい自分になれるような、夢心地の気分だったのだろう。

高校に進学して、「いつか地元に帰るかも」「帰りたい」と、友達や恋人に話すことがあった。その頃は純粋にそう思っていたのだろうけど、今思えば相手の愛情を試していた。「このまま東京にいてよ」と言われたかった。なんか、そう、選ばれたかった。仕方なく上京したわたしだけど、必要とされて東京にいたかった。東京生まれじゃないことは、わたしにとって、相手の気持ちを図る武器だった。
そして「つらくなったら地元に帰ってひとり暮らししてもいいし」と、地元をいつでも帰ることの出来る逃げ場だとも思っていた。「上京したわたし」は、人生のいろんなことに対しての言い訳になっていた。かなり偏見にまみれているというか、ポジティブというか。何故か、本当にそうだった。

わたしのいる場所は、ただの「ここ」

そして、24歳のいま。東京で就職して、職場で出会った彼氏がいる。いつかは結婚したいとも思っている。東京が生活の拠点。もし子どもが出来たりしたら、その子は東京生まれになる。そんないま、やっと、わたしが信じていた「逃げ場」や「言い訳」が魔法だったと気付いている。
本当は出身なんてどうでも良くて、どこ生まれどこ育ちなんて、気にしすぎることはないのだ。自分の道は自分で決めていいのだから。東京生まれのわたしの友達は、わたしが地方出身なんて気にしていなかった。
進路の話をする時、このまま東京にいることを迷うこともなく語る友達は、当たり前のように生きる場所を決めて、既に覚悟しているように見えた。友達には、わたしがすがっていた魔法の逃げ場や言い訳のような何かはあったのだろうか。その自然な覚悟はどこから生まれるのか、その姿は羨ましく、不思議だった。でもきっと、ふたつの映画の主人公ではなくて、ひとつの映画の中を生きていた友達の方が、人生に責任を持っていたのだと思う。

わたしは、自分の力ではどうにもならない、親の転勤という名目で、地元を離れないといけなかったかわいそうな女の子、をずっと演出してきたんだろう。なんというか、まあ恥ずかしい。「東京」というだけで、わたしは何をこんなに影響されてしまったのだろう。
これは自己愛の果てのものなのかな。東京という街のきらきらに埋め尽くされてしまっていたのかな。

なんにせよ、魔法が解けたいま、わたしはわたしとして、ここに生きる人間として、毎日精一杯働いて、家族、友達、恋人を精一杯愛するのだ。わたしのいる場所は、ただの「ここ」。大切なあなたがいる、「ここ」でしかない。バカらしいかもしれないけど、ずっとわたしを支えてくれていた逃げ場と言い訳から、もう卒業しようと思う。
――東京に来てよかった。