かつて、そこそこ大きな音楽事務所と契約しかけたことがあった。
しかけただけで、結局は契約せずにフェードアウトしたのだが。
「是非うちと契約してほしい」
学生時代、音楽活動にいそしんでいた時期があった。ライブハウスやバーなどで、自作の曲をバンドや弾き語りで披露していた。
ある時、某事務所の副社長がたまたま私の弾き語りを観て、声をかけてきた。
「とても気に入ったので一度話がしたい」と。
当時の私は「音楽事務所に声をかけられるなんて、今まで頑張ってきた甲斐があった!」と浮かれていた。同時に「そんなうまい話がある訳がない、気を引き締めねば」とも思った。
思いつつ、指定されたビルへと向かった。
ガラス張りの応接間のような部屋に通され、ふかふかのソファに座りながら服の毛玉を取って待っていると、例の副社長と、知らない中年男性が現れた。受け取った名刺には「代表取締役会長」と書かれていた。
副社長から、「あの曲が強烈だった、他の曲も聴かせてくれないか」と言われた。私は自作の曲(iPhoneで宅録したもの)を流した。
副社長と社長は「いいね、是非うちと契約してほしい」と言った。そして近いうちに印鑑と身分証を持ってくるように、と。
痩せなきゃ痩せなきゃ痩せなきゃとダイエットに頭が支配された
帰り際、所属するアーティスト達の宣伝チラシを渡された。「この子はもうメジャーデビューしてて、この子はデビューを控えてるんだ」。
雑なレイアウトのチラシを見ると、綺麗な女の子達が皆ニッコリ笑っている。
その後、事務所の曲制作の過程や方針を詳しく聞き、多少の違和感を感じながらも、「分かりました」と答えた。
そして去り際に言われた。
「あと、言いにくいんだけど、あと3kgくらい痩せたりできる?」
衝撃だった。「3kg痩せろ」。
当時普通体型だった私は特に体型にコンプレックスは無かった。しかし契約がかかっている。その場の勢いで即答した。
「痩せます。次、会うときまで、この腕時計のベルトを2つ、いや3つ縮めてみせます」
そう言って事務所を後にした。
社長さん達は満足気に笑っていた。
「私はデブなんだ」
帰り道、痩せなきゃ痩せなきゃ痩せなきゃとダイエットに頭が支配され、改札を間違えた。
見た目で売るために痩せたくない。私の「音楽」を聴いてほしい。
家に帰って、改めて事務所で聴かされた他のアーティスト達の曲を思い出す。恋がどうだの愛がどうだの、なんて生温い歌詞だ。メロディも雑な打ち込みで、なんの面白みもない。熱がない。有り体に言えば、私の嫌いなジャンルだった。
貰ったチラシを見返す。なるほど、確かにチラシの女の子達は皆アイドルのようにスリムで可愛い。
ん?ということは、私もこれになれということか。私をアイドルにしたいのか?私はアイドルになんてなれない。なれるわけがない。新ジャンルの確立を狙っているのか?それにしても、あの時は勢いで「痩せます」と言ってしまったけど、どうして音楽に見た目が、美醜が関係してくるんだ。確かに「売れる」為には可愛い方がいい。誰もが羨むスリムな体型がいいに決まってる。だけど、私がなりたいのはそんなんじゃない。3kg痩せること自体は造作も無いことだ。だけど、そんなもののために痩せたくはない。今の私の「音楽」を聴いてほしい。
私はこの精神から発せられた感情を、この肉体を通して曲にし、歌う。共感してくれたお客さんは泣いてくれる。笑ってくれる。ただそれだけでよかった。
しばらく考えた結果、また例の応接間へと足を運んだ。そして「契約は、もう少し考えさせて欲しい」と伝えた。副社長と社長は快諾してくれた。
その後、作曲だけでもしてくれないかと頼まれ、お題のようなものを貰っては、それらしい歌詞とメロディを考えて持っていき、小遣いを稼いでいた。私は即興曲作りが得意だったので、割のいいバイトだな、と楽しんでいた。
が、それがしばらく続いた後、ついに飽きた。
「こんな生温い曲作ってられっか」と。
そうして納期を無視してフェードアウト、すなわちバックれた。
事務所との関係は終わった。
「3kg痩せろ」という言葉は、今でもふと自身の痩身信仰を駆り立てる
今でも少し考える。
「3kg痩せろ」と言われなかったら、契約していただろうか?
あの時素直に痩せて契約していたら、どうなっていただろうか?
当時から比べて3㎏どころか10㎏近く痩せた今の私を見たら、なんと言うだろうか?
悶々と考える。
しかし、「3kg痩せろ」と言われたおかげで、事務所の方針が自分に合わないことがよく分かった。私は「良い音楽」の基準に見た目の良し悪しを必要としない。
勿論件の事務所が悪いというわけではない。キチンと需要があるし、実際に売れている。ただ、方針が違ったのだ。
「3kg痩せろ」という言葉は、今でもふと、自身の痩身信仰を駆り立てる。
私の体型は私の為のものに他ならない。
私は私の為だけに体型をコントロールして生きる。私の身体は私のものだ。頭では分かっている。
それでも、人前に立つ為の「基準」を突きつけられた衝撃は今も変わらず頭の片隅に存在している。
あのアイドル達は今でも歌っているのだろう。
ファンが求める容姿で、ファンが求める歌を。私が作った曲も歌っているのかもしれないと思うと、少しだけ、おかしい。
妙な気分だ。