ぷよぷよとした瞼に人差し指を食い込ませる。3秒程、くっきりとした二重。瞬きをするとまた元の一重になる。また食い込ませる。また元の一重に戻る。そして私はこっちの方が好きだな、とぷよぷよな一重を触って再確認する。
「このクラスで一重の人?」という「公開処刑」
でも、中学生の頃の私は自分の目がコンプレックスだった。たしかあれは中学1年の理科の授業の時の、先生の一言。
「例えば二重は優性で、一重は劣性です」
理科用語の優性・劣性というのは対立する遺伝子のうち発現しやすい方、発現しにくい方という区別である。ざっくり簡単にいうとそんな説明で、先生は目の話を持ち出した。
「このクラスで二重の人?」
クラスの生徒の7割ほどが手をあげた。
「じゃあ、一重の人?」
私を含め、3割ほどが手をあげた。
先生的には優性がマジョリティ、劣性がマイノリティだよ、と上手く説明したかったのだろうが。3割の一重グループにとっては公開処刑そのものだった。
黒板に書かれた''劣''の字に悲しくなった。そうか、生物学的に私の目は「劣って」いるのか。確かにモデルさんや女優さんは二重の人ばっかりだもんなぁ。
そんな先入観と価値観に支配されて、私は自分の一重が嫌いになった。アイプチで二重を作ろうとしても私の一重は重た過ぎて上手く出来なかったし、二重マッサージは揉めども揉めども、まったく効果がなかった。もがくほど、努力をするほど、形状を変えない頑固な自分の瞼がより一層嫌いになっていった。
正直、ふわふわ可愛い系よりキリッと美人な女の子が好きな私。二重=ふわふわした可愛らしい女の子というイメージが元々あったからどうしても二重になりたい、という欲はなかった。ただただ、一重の自分が嫌だった。劣っているのが嫌だった。
韓国アイドルにはまり 一重は全く「劣ってない」
高校1年生の頃、私は韓国のアイドルにハマった。そのアイドルの女の子は一重で、自分の瞼をチャームポイントとしていた。カッコいいダンスに合うアイメイクをしていて、最高にクールだった。ネットで「韓国 一重メイク」と検索すると大量に綺麗な女性達の写真が出てくる。一重は全く「劣って」いない。急に呪縛がとけたような気がした。
それから私は、長らく見て見ぬフリをしてきた自分の瞼を観察するようになり、自分の本来の目を生かしたメイクをするようになった。もしかしたらメイクの力で、好みのキリッと美人系の女子に近づけるかもしれない。長めにアイラインをひいてアイシャドウも丁寧に。無理矢理ビューラーでぶち上げていた睫毛も、伏し目が綺麗に見えるようにビューラーを使わなくなった。
鏡にうつる自分の目はアイドルの子のようなクールな目では無かったが、涼しげでキリッと品のある私らしい目だった。色んな角度から鏡で眺めると、キラキラとアイシャドウが光った。アニメや漫画に描かれる妖狐のように、自分の目が時々とても妖艶に見えたりもした。これが私の目。呪縛から逃れ晴れて自由になった私は、メイクの楽しさを知ってどんどん自分らしいメイクを追求するようになった。「劣った目」から「劣ってない目」、気が付けば「私らしい目」になっていた。しかもこんなにもぷよぷよしていて、触るとリラックス効果まである。たくさんアイプチのりまみれにして、嫌ってごめんね、私の瞼。
劣性がなんだ。個性的な私の一部分。
一生、愛していこう。