自分の過去の体験と、就きたい職業を結びつけてしまうのはなぜだろう。数えきれない職種が存在しているなかで、自分が知っている職業だと目指しやすいからだろうか。
私は生後1カ月のときに、気道が塞がり死にかけた。救急隊の方々の迅速な対応のおかげで私はいまも生きている。リンパ管腫という珍しい病気を持って生まれてきた私は、顔の左半分が麻痺している。生まれてから現在に至るまで、ずっと病院とつながりながら生きている。
命を救って頂いたから、病院とご縁があるから、将来はなにか社会に恩返しをしないといけないのではないか。そういう気持ちを意図的に抱くようにしていた。私は自分自身に洗脳していた。
ケアの仕事が好きだったし、自分に向いていると思っていたけれど
高校卒業後、社会福祉を勉強できる大学に進学した。人とは異なる外見で、しかも大した取り柄のない私は、だれかに褒めてもらう経験がほとんどなかった。だが、大学の4年間、授業や実習では人から褒めて頂く機会がたくさんあった。「褒めて伸ばす」という大学の方針だったのかもしれないが、私にとっては大きな自信に繋がった。 大学卒業後は迷うことなく福祉現場の仕事に就いた。ケアの仕事が好きだったし、自分に向いていると思っていた。
就職して2年半を迎えた今年の夏の終わり、ベットから起き上がれなくなった私は、休職を余儀なくされた。1カ月で体重は5キロ減少した。抜毛症で髪の毛を抜き続け、頭皮はアトピーが悪化して出血していた。すべてのコンディションが崩壊していた。 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
人混みや人の声色や表情に敏感な私は、ケアの現場で疲れ果ててしまった
そもそも私は本当に福祉の仕事に就きたかったのだろうか。
存在価値のない私が、ケアの仕事をしているときは誰かの役にたっている。そのことに対して優越感に浸っていただけなのかもしれない。
私は自分の体質を理解できていなかった。理解することから避けていた。存在価値のない私は、多少苦手でも人よりも頑張らないといけないと思っていたからだ。
・人混みや音に疲れやすい
・人の表情や声色に敏感
・事件や事故、災害関連の報道が苦手
・マスクがないと外出ができない。
これは私の性格の一部である。これらは、HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という体質の特徴に当てはまる。
私は周りの人よりも、少し敏感な体質だったのだ。
HSPの人は、気配りができる、共感度が高いなど繊細な気質が長所になることもたくさんあると言われている。それは私にも当てはまっており、ケアの仕事では評価して頂くこともあった。
しかし、人混みに疲れやすかったり、人の声色や表情にも敏感な私は、ケアの現場で人々の往来を見ることに疲れ果て、結果的に身体を壊した。
苦手なものとうまく付き合う方法を知ることも大切だと思った
幼い頃、苦手を克服することが大切だと言われた。鉄棒や跳び箱、縄跳びにマラソン、体育全般が苦手だった私は、努力ではなんともならないことがあるのではないかと感じていた。どう頑張っても、あの子のようにすいすいと逆上がりはできないし、7段の跳び箱も飛べないし。
体質的に苦手なものは誰しも持っている。生きていく上で、苦手なものとの関わりを根絶するのは不可能である。ある程度大人になったら、それらとうまく付き合う方法を知ることも大切だったと感じている。
私は、仕事を辞めることで自分自身にかけていた洗脳から解放することができたのだと思う。命を救って頂いたからといって、社会に恩返しができなくてもいいのだと。