「私って、誰?」 
私はある時にふとこの疑問が浮かび上がってから20歳になった今まで、考え続けている。いつから私なのだろう。 
成長して人間の思考をつくるのは、まず親の思考が関わる。そしてどんどん増えていく他人との関わりの中でつくられていくものだ。
その中で私たちの生きる時代に現れたのが、携帯電話という便利な物だ。現代人の思考は、SNSに支配されていると思う。

SNSで求められた「個性」に混乱

私が、「私である」ということを意識し始めたのは、18歳の時だ。それまでの私は〔周りの人から良い子だと思われたい〕という思いだけを大切にして生きてきた。好きな色、服装、好きな歌手でさえも、周りに合わせてきたのだ。
しかし私自身の意識が変わったと思うのは、InstagramやTwitterを始めてからだと思う。
そこでは「個性」が求められた。
その時から、個性って何だろう? と考え始めた。

私は、小中学校の教育が、人の考え方の基盤となっていると思う。例えばランドセルの色は、今でこそカラフルなものが多いが、約10年前は、女は赤で男は黒だったように、「みんな同じ」が当たり前だったし、誰が決めたのか分からない当たり前を、疑うこともしなかった。
それから、「協調性」という意味を履き違えている人が多いと感じる。本来、〔それぞれ違う個性を認めた上で助け合い、同じ目標に向かう事〕を意味する。しかし私は当時、〔周りと同じことが出来る〕ということに価値があり、つまり協調性があるということなのだと思っていた。

だから周りに合わせることに全力を注いできたのに、急に「個性」が求められることに混乱した。私は今までの18年間の努力が全て意味のない、無駄なことなのだと感じ、絶望した。虚無感に襲われ、どうすることもできなかった。
その時から、私のコンプレックスは、「偽りの私で生きてきた18年間」になってしまった。心から何かを楽しむことが出来なくなってしまった。

苦しい。周りの友達はどこで、「個性」を身に付けたのだろうか。私は0歳になった気分で、ただ呆然とする毎日を過ごした。ずっと混乱した状態で、でも今まで通り、学校に行けば今までの「私」を演じ続けた。
0から本当の私を探すことは本当に難しい。信じられるものがないから。 『最後は自分を信じる』というけれど、腑に落ちなかった。

自分を認め、褒めることで生きやすく

そんな私が、そこから約2年間意識していることがある。
それは、18年間の私を肯定することだ。自分ではない誰かを演じているような毎日だったけれど、そんな日々もあったなと認める努力をした。自分なりに、自分のために頑張ったことを褒めたい。

そして、自分の好きなことや得意なことを認める努力をしている。どんな小さな選択でも真剣に悩み、自分が心地いい方を選ぶ。まだまだ神経質になり、心から楽しいといえるまでは到達できていないが、日々生きやすくなっているような気がする。
今まで感じていた生き辛さを認め、これからは違う考え方で自分のために生きたいと思えた事は、大きな進歩だ。

個性は、作るものじゃなくて既に備わっているもの。一つずつ、本心かを確かめていく作業を怠らないことが、わたし自身の為になる。