大学生になって、twitterやinstagramを使うようになって、見る世界が180度変わった。
新しい世界に出会った。そこで本当に最近「pms」(月経前症候群)なるものを知っていくにつれて、自分にもその症状が当てはまることを知った。私だけじゃない。たくさんの世界の終わりという存在であふれていた。

気分の落ち込みだ。自分にとっては落ち込みと表現できるほど生易しいものではない。生理前になるたび一ヶ月に1回で、「世界の終わり」がくるのだ。生理一週間から二週間前に、黙示録は始まって、生理前日に終末がやってくる。終わるその瞬間に私は何にもできない無気力の屍に成り果てる。これが私の「世界の終わり」だ。

一時的にごまかすことはできるけれど

黙示録であっても、なんとか自分を一時的にごまかすことはできる。早く寝る、美味しいものを食べる、友達、家族と話す、化粧品を買ってみたりする。特に人と話すことの有効性は高い。空っぽの心を人と話すことで充電するような感覚。けれど恋人というような特定の存在での充電はできない。それは依存につながってしまうから。
恋人をはじめとした、特定の誰かに寄りかかることを覚えてしまったら、本当に大変なときに乗り越えられなくなってしまうのではないか。

人間は孤独だ。しんどいときに孤独と絶望に慣れ親しんでおかないといけないのかもしれない。大変な時、特定の誰かがいつも私を引っ張り上げてくれる訳ではない。

そして、当たり前だけども、自分のご機嫌とりは絶対的なものではないから、失敗して何もできずにさらに鬱々とすることもある。でも最近気づいた大切なことは、自分と向き合うことなんだと思う。

孤独の中でしか出合えない自分

気の持ちようとも片付けられてしまいそうな、私の情緒不安定さはいつか、安定するのだろうか。そんなことを考えたって、無気力になる日が決まって今月も、年に12回、「世界の終わりの」一週間はやってくる。そんな自分を恨めしく感じながら、今日も私は自分が動けなくなる前に就活の情報を集めて、webテストの対策をしてesを悩んで書き連ねているのだ。

だけれども、憂鬱に病んでいる日々は私にとってなくてはならないという側面であるのもまた事実。
そうでなければ私は自分と向き合うきっかけはなかったかもしれないし、そして自分の情緒不安定さを相対化するためには自分を文章化することは、こうやって筆をとることはなかったかもしれない。そうであるから憎くても憎みきれないのかもしれない。「孤独」を感じることは確かに不安だ、だけれども、何か「孤独」の中でしか出会えない自分がいるのだ。

嫌なところばかり目につくし、自己嫌悪の嵐が吹き荒れる。
そうであるからこそ、私はそこで出会った友人、家族、恋人の大切さを再認識して、自分のご機嫌を取るためのものが大好きであるかを確認することができる。

この大切さを感じられなくなったら、私の心は貧しくなってしまうのかもしれない。自分の大切なものをより大切にするために、そして誰かの「世界の終わり」のノアの箱舟に乗る動物になれるかもしれない。

そう考えると私が私であるためにこの落ち込みは必要であるのだと思う。
でもやっぱり「世界の終わり」は生きにくい。
そんな「世界の終わり」はたくさんの人のものであるし、私自身の終末を公開することが、誰かの世界を少しでもいいから少しだけ肯定できればいい。