理由なんてなかった。そんなつもりすらなかったのだから。
私は髪を伸ばしていた。キノコのようなショートヘアが長らく私のトレードマークだったが、このたび、イメージを変えることを思い立った。バイト先に好きな人ができたからである。
髪を切ってもらっている間、雑誌を読んでいたら嫌な予感がした
その日、私は二か月ぶりに美容院に足を運んだ。胸のあたりまで伸びた髪の毛先を整えてもらうためだ。今日はとりあえず鎖骨あたりまで切ってください。そうオーダーすると、美容師さんはさっそくハサミを手に取り、チョキンチョキンと私の髪を切り始めた。整えるだけだから、そんなに時間はかからないだろう。そう思いながら、私はファッション誌を手に取った。
洋服の値段に目が飛び出そうになり、話題のコスメ特集を隅から隅まで熟読する。ちょっとエッチな特集は早送りで。人気俳優のページを読み込み、次は占いのページだ、と思ったところで、嫌な予感がした。長い。いくらなんでも長すぎる。たかが数センチ切るのに、雑誌一冊読み終えるほどの時間がかかるだろうか。顔を上げて進捗度を確認したいところだったが、私は切り終わるまでは絶対に出来上がりを見ない主義なのだ。そして頑固でもある。若干の不安を抱えつつも、私は引き続き雑誌に集中することにした。占いの内容が頭に入ってこなかったことは言うまでもない。
今の私が求めているのはこの髪形ではないのだ
「終わりました」。私は美容師さんのその言葉に待ってましたと言わんばかりに勢いよく顔を上げた。そして絶句した。胸まであった私の髪は、鎖骨を優に超え、顎のあたりまで切られてしまっているではないか!「いかがですか?」と尋ねられたが、どうもこうもあるか、という思いでいっぱいだった。
確かに髪形としてはこのショートヘアは大変かわいいとは思う。しかし、今の私が求めているのはこの髪形ではないのだ。ケープと足元に散らばる切られた髪の束がむなしい。だがそんなことを思ってもこの髪は私の頭には戻ってはこない。私は「あぁ、いいですね……」と返すしかなかった。笑顔で言えたかどうかは覚えていない。
私の滑舌が悪かったばかりに、「鎖骨」と「あご」を聞き間違えられてしまったのだろうか。はたまた、私の鎖骨がぜい肉に覆われてはるか奥底に沈んでおり、その所在が確認できなかったため、「なんだ、鎖骨らしきものがないぞ。まぁいいや、髪を切りに来たことは間違いないんだから、とりあえず切ってしまえ」となって、あごのあたりまで切られてしまったのだろうか。さすがに後者はないだろうなと思いつつ、私は美容院を出るとすぐに鎖骨マッサージを行った。
思いがけない髪形の変化が、私たちの関係を変えてくれた
翌日、私は重い足取りでアルバイトへ向かった。おっちょこちょいで落ち着きのない私。今度こそ髪を伸ばして女性らしさをアピールして、クールな彼に見合う女性になりたかったのに……。しょんぼりと肩を落としてあいさつ回りをしていると、彼の姿が見えた。
「おはようございます」
「おはよう」
本来ならここで会話は終わりだが、ふと、彼の目線が私の頭に行っているのを感じた。
「髪切ったの?」
「あ……、はい」
私はややうつむきながら答えた。できれば髪形には触れてほしくなかったからだ。しかし、彼の返事は意外なものだった。
「ふーん。……似合ってるよ」
思いがけない髪形の変化が、いつものあいさつ回りを、そして私たちの関係も大きく変えさせてくれた瞬間だった。これで当分はいつもと変わり映えしないキノコヘアか、と沈んでいた私の気持ちは、彼のそっけなくも嬉しい一言によっていとも簡単に引き上げられた。私は「彼に褒められたこのキノコヘアをキープせねば」と、早くも次の美容院に行く日が楽しみになっていた。