ある時期、恋人と別れるたびにその時持ってた下着を全部捨てていた。
下着は私のアイデンティティで、彼らはその下着をジャッジするのが大好きだった。
別れる前までは妥協で許せていたものが、別れた途端に許せなくなる。
蔑ろにされていた痛みがこみ上げて、大嫌いになる。
彼らの価値基準に落とし込んでジャッジされた下着を見ると、悲しさと相手への嫌悪感とすり減った尊厳の喪失感とが相まって辛かった。
私は当時下着が大好きで、綺麗な好みの下着を選んで買って身に付けることを自己表現の一つとして考えていて、下着はもはや自分の一部だった。
きっかけは高校生の時。ランジェリーをテーマにした小説を手に取ったこと。
ランジェリーを通して人の人生や価値観が変わっていくという内容のその本をきっかけに私は下着に興味を持って、ある日密かに気になっていた近所の下着屋さんに飛び込んだ。
下着は見えないドレス
ジャスミンのアロマが香る店内で、目にした下着たちはどれも色や形、仕様など種類が豊富で、芸術的だった。
パステル調のものがあるかと思えば、蛍光色の爽やかなものもあったりする。ブラのホックも前開きと後ろ開きのものがあったり、ショーツはソング、普通のショーツ、デザインショーツのだいたい三種類が一つのデザインにつき揃っていたり。
そのバラエティ豊富な品揃えは、それまでスーパーで売っているようなどれも似たような色と素材の下着を使っていた私にとって衝撃だった。
そのお店の下着は、上下合わせて平均5000円くらいする。当時の私のお小遣いと同じくらい。他にものを買わなければ余裕で買えた。
高校生には背伸びした買い物だったかも知れない。でもそれで超特大のときめきが買えるなら安いくらいだったから、夢中になって毎月買いに行っていた。
少し変わった表現かも知れないが、下着は私にとっては見えないドレスみたいなものだった。
昔から刺繍やレース、オーガンジーをあしらった、ドレスみたいな豪奢な服が着たいなと憧れていた。でもそんな服はなかなか存在しない。
だからそんなときに現れたのが、まるでドレスな綺麗な下着たちだったから、服の下に豪奢な下着を身につけて、ドレスを着ている気分で日常に臨んだ。
初めてそこで買った下着は、黒いレースの、お尻がレースタイプのデザインショーツの上下セットだった。
試着室で鏡越しに見たそれを身につけた自分は、いつもの人からなめられそうな見た目の自分とはがらりと印象が違っていた。大人っぽくて強そうだった。息をのんだ。身につけるたびに胸が高鳴って、私は自分のために買った。
待ち受けるジャッジが嫌になった
自分のために選んで買ったのに、下着屋さんから一歩外に出れば私の意思とは関係なしにジャッジされる世界が待ちうけている。
「勝負下着だよね?」
デートの日、当時付き合っていた彼は私のその黒レースの下着を見て言った。
「違うよ」ばりばりの普段下着だった。
「えっ、でもその見た目は勝負下着でしょ。まさかそれ学校にも着けてってんの」
「うん」
何か問題でも?
その思いで頷いた。
彼はにやにやと薄ら笑いを浮かべた。
気持ちが悪かった。
その彼の次に付き合った人も、毎回会うたびに下着についてコメントしたがる男だった。
服のラインに響かない、機能性で選んだTバックを「エッチだね」とにやついて評してきた。
嫌になった。
下着を買う時着てく時、1割くらいは「見たら服みたいになんかコメントするだろう、そういうものだ」という気持ちが多分あった。
でも、残り9割は自分のためだったから。
会ってる時は気の弱い私で「え〜、そう?」なんて毎度毎度ゆるく流してたけど、内心キレてたし、お前にどんな権限があってそんなこと言ってるの?って、怒っていた。
おまえのその無印良品のボクサーパンツだって日用品だろ?一緒だわ。普段着にいちいち文句付けんなよ!
みたいな。
美しいブラとショーツは評価されるんだ、と私は感じた。どんなに切り離したくても、男からのジャッジと切り離せなかった。
ジャッジから逃げたい一心で、お気に入りだった美しいランジェリーを全部ゴミ袋に捨てて、女性性ゼロのユニクロのブラトップとボクサーパンツ型ショーツを買った。
付き合った元彼が皆ジャッジしてきたものだからもはやトラウマで、下着もそうだけど女として身に付ける日用品でジャッジされるのが苦痛だし、しばらく男の恋人を作らず男女の交流に縁を持たない生き物として存在し続けた。
でも、最近ワコールからの宣伝メールが来て、久しぶりに開いてみたらバレンタイン柄の下着の画像が見えて、かわいいなと思った。
私、下着好きだったんだ。って気付いた。
だからこれからは、ジャッジの呪縛から自分を解放して、気兼ねなく好きな下着をまた買えたら良いな。そう思うようになった。
私は、主体的に好きな下着を選ぶ権利が欲しかったんだ。