「下に猫が3匹いるよ(笑)」
これは、兄妹の有無を聞かれたときのわたしの答えだ。だいたい兄弟の有無を尋ねた人間が答えを聞いてから言いたいことは「あーぽいね」か、「えー意外」のどちらかで、それ以外の回答が広げられることはほぼない。
これは、わたしが15年かけて培ったいわゆるライフハックだ。いまのわたしに人間の兄妹はいない。15年前、11歳のわたしにはいた。妹がいた。11歳の時、8歳の妹が死んだ。
私は本当に妹のことが大好きだったし、守りたかった
当時、祖父母は全員生きていて、私にとって一番最初に体験した身近な人物の死は妹だった。子どもの私から見ても妹は子どもで、子どもって死ぬのか。と思った。死んだので、会えなくなった。死ぬというのは会えなくなるということだ、というのを初めて実体験として味わった。
死はなんて悲しいんだろう。二人で使っていた子ども部屋は広くなり、私は一人ぼっちでは眠れなかった。小さな小学校の中ですれ違うこともなくなった。二人で遊んでいたマリオパーティで私とサイコロを振ってくれるのはコンピュータだけになってしまった。コンピュータからテレサを使ってスターを奪っても全然楽しくなかった。
私は本当に妹のことが大好きだったし、守りたかった。どんなわがままを言われていても許していた、と思う。全お姉ちゃんが嫌がる、お姉ちゃんでしょ、を言われていたかは忘れてしまったが、言われるまでもなく私自身が姉の自覚で溢れていた。かわいい、かわいい、柔らかいほっぺと小さな手。
お酒の席で子どもの頃に死別した妹の話ができる人はかなり強いと思う
それから15年間一人っ子として生きてきた。でも、わたしは一人っ子ではない。けど、妹はいなくなってしまって、今は一人っ子であることも事実で。何も気にせず事実を答えればいい人たちが思っているよりも、兄弟構成を聞かれる場面は多い。初めましての相手からは血液型と同じ頻度で問われると言っても過言ではなくて、それはおそらく「性格診断」的なニュアンスがあるからだ。例えばA型は几帳面、B型は自分勝手、O型はおおらかで、AB型は天才肌、というように、長女は責任感が強く、末っ子は自由で、一人っ子は甘えん坊、と。
例えば何人かでお酒を飲んでいるとして、誰かのグラスが空になるたびに何を飲むか聞いてくれる女の子がいたとする。誰かが言うのだ「◯◯ちゃんはすごく周りを見ているね。もしかして長女じゃない?」きたぞ、と私は思う。「え!よくわかったね!下に弟がいるよ。△△さんは一人っ子っぽいかも」「ブッブー違いまーす。わたしは3人兄弟の真ん中!」ああ、二人でその話題を完結させてくれ。頼む。「えー、わたしも三兄弟の真ん中だよー!」おい!××!お前が入っていったら、ほら、だってこの流れで、わたしに話を振らないなんてことはないじゃないか!…あ、目が合う。
「きわちゃんは?ご兄弟いるの?」
そして冒頭のセリフ。
みんな、小ボケとして受け入れてくれる。面白いかは別として。別に最高のジョークとはわたしだって思ってないよ!そして、大抵、「え!猫3匹もいるの?いいな~」の方向にいく。猫、しかも複数匹はかなり強いのだ。しかし、ごく稀に「ってことは一人っ子なの?」と念押しされることがある。わたしは最初の方は少し迷って、今はなんの迷いもなく「まあそういうことになるね」と答える。特に親しくない人たちとのお酒の席で子どもの頃に死別した妹の話ができる人はかなり強いと思う。猫と同じくらい強い。わたしは弱いのだ。「あーぽいね」と言われたとしても、多分本当にぽいんだろう。わたしは最初から一人っ子だった子よりもずっと大事にされてきただろうから。両親からすればスーパーマリオでいう残機1の状態なのだ。1UPはもちろんない。
世の中の姉妹がみんな仲良しでいてほしい
それから続いていく姉妹の話を聞くのも、もう全く平気になってしまった。子どもの頃はとなりのトトロのメイとサツキも、はじめてのおつかいで1000円札を握りしめておつかいにいく小さな姉妹も、羨ましくて、妬ましくて、叫び出しそうだったのに。「え~お姉ちゃんって大変なんだね~」なんていう相槌を打ったりもできる。大変でもいいから、姉でいたかったのに。
わたしは世の中の姉妹がみんな仲良しでいてほしい。子どもの姉妹も、大人の姉妹も、老人の姉妹も、仲良しで、助け合ったり、励ましあったり、してほしい。漫画の広告ではよく不仲の姉妹が出てきて、恋人を取ったり取られたりして、復讐したりされたりしているが、そんなのやめなさい。せっかく2人で大人になれたのに。恋人なんていう赤の他人よりお互いを大切にしなさい。と思う、けど、そういう漫画ってめっちゃおもしろくて続き気になるよね~。