私には妹がいるらしい。しかし、話すことも会うこともなく、ごはんを一緒に食べることさえも今日まで叶ったことがない。たぶん死んだ後にそれはやっと実現する…という表現が一番合っているだろう。

救急車で大学病院に運ばれて、突如子宮外妊娠と判明した

私が妹の存在を知ったのは19歳の春。当時、大学で出会ったツリ目の彼氏と通常運行で健全にお付き合いしていたはずが、道路で私が倒れ、救急車で大学病院に運ばれて、突如子宮外妊娠と判明した、2011年の春である。子宮外妊娠とは、正常な妊娠が期待できる部分以外のところに妊娠したことを言う。腹痛や出血を伴い、命の危険さえある状態だ。前置きしておく、大学生の私はもちろん避妊をしていた。だから、これは事故としかいいようがなかった。とても、とても悲しい事故だった。

緊急入院を強いられた私は「子宮ではなく、卵管という精子の通り道に妊娠してしまっています。命が危険です。これから手術をします」と衝撃的な説明を医師から聞き、状況を飲み込めないまま麻酔を打たれて気を失った。起きたら、あっという間に卵管を片方切除されていて、ベッドのそばで大泣きする母を横目に下腹が裂けるように痛かった(実際、メスで腹を裂いたのだけど)。

控えめに言って、これは、10代の女の子には受け入れがたい事実で、たくさん泣いたし、鼻水が詰まって息ができずに入院中毎日ナースコールを鳴らした。そのたびに看護師は不機嫌に私の元にやってきて、ティッシュで乱暴に私の鼻をぬぐった。

母も同じように妹を失ったときに苦しんだのかもしれない

さて、人生においてかなり大きな事件が起こったこのタイミングで、母から私にはじつは妹がいたという事実を知らされる。妹は、生まれる前に向こうの世界に戻ったらしい。私が会いたくても会えないわけだ。病院のベッドの上で、何をしたって好転するわけでもない双方の状況に対して、ひたすら母と泣いた。「さみしい」「つらい」「なんで?」という気持ちを涙でじゃぶじゃぶ洗い、不条理な気持ちを整理しようとしたことを覚えている。

19歳のあの体験は、結果的には望まない妊娠だった。でも、生まれてこようとした第一子を不本意な形で無くしてしまい、その代わり私が助かったかたちになる。その間、幾度となく自分を責めた。妊娠という衝撃に加え、望まなかったにしろ第一子を失った悲しさややるせなさから「なぜ私だったか」と答えのない質問を自分自身に問い続けてきた。幸せになる価値なんて私にはないと決めつけ、自分の心を戒めようとする行為ばかりを好んだ。もしかしたら、母も同じように妹を失ったときに苦しんだのかもしれない。当事者の私はこの悲しみを噛み締め、はるか昔、妹を失った母へ思いをはせる。

今年、29歳を迎える今、母が「お腹の子があなたを守ってくれたのよ」と言って私を慰めてくれた意味がやっとわかってきた気がする。

妹にも第一子にもこっそり名前をつけ、たまに墓に会いに行く

私は結婚することになった。私に起こったこと、すべてひっくるめてすべてを受け止めてくれる男性に出会ったから、もちろん子どもを産むことも視野に入れたい。あれから、私は生かされ、10年近く生きたのだ。

10年の間に私の気持ちはだいぶいい方向へと向かった。でも、私の女性器のちょうど5センチくらい上にある手術痕はまだ消えていない。「いつも傷つくのは男じゃなくて女のほうなのよ」と母がよく言っていたことを風呂場で裸になったときに思い出す。
私は、多くの女性がする、陰毛の脱毛に勇気が出なくていまだに行けない。産婦人科検診の股をガシャーンと開くあの器具はやっぱり怖い。相変わらず、妹にも、第一子にも今は会えない。こうやって変わらないもどかしいことはたくさんある。けれど、それでいいと思っている。

妹にも第一子にもこっそり名前をつけ、たまに墓に会いに行く。「私はあなたの姉だから」「私はあなたのママなのよ」という少しばかりの意識を心の片隅において。母には「本当にたまに思い出すだけで十分なのよ」と言われている。だから、“たまに”がちょうどいいんだと思う。

さあ、きっとこれから結婚して私は旦那と世界一幸せになるし、これから旦那との間にできる子どものこともたくさん愛すると思う。自分の人生に大満足したまま私は大往生して、その後、向こうの世界で妹と私の第一子への初対面を果たすだろう。会ったら、妹には立派なアネキ面をしてやるし、妹と一緒になって第一子を可愛がる。それで、ごはんを作って一緒に食べる。そのときに妹に対して初めて姉らしく、振る舞えるのだと思う。