そんなふうに、高校生の私はフィクションの世界で生きていた。そのせいか、現実世界の人と関わらなくなっていった。

「夢小説」架空の恋愛に依存していた私。虚しさは増すばかりで

二次元のキャラと送る日々が楽しくて

フィクションの世界で生きて何が悪いの? と私は心から思っている。だってフィクションの世界楽しいじゃない。現実は鬱陶しいけど、フィクションにはその鬱陶しさがあっても所詮他人事。自分と切り離して考え楽しむことができる。現実はいつだって自分事で、それは大切なことだけど、少し、いや、かなりしんどい。アルビノやASD、セクシャルマイノリティをはじめとするマイノリティの現実を伝えていきたいと言っている私が言うのも何だけど、現実はしんどい。しんどいからこそ、逃げてもいい。逃避先の一つとして二次元はあっていいのだ。

私は夢女子を経て腐女子になった人間である。ただ、夢小説の主人公と自分は私のなかでは完全にイコールではなかったから、夢女子とは少し違うかもしれない。理想の自分になって、二次元のキャラクターと日常を送る。そんな日々が楽しかった。

夢小説のなかでは恋愛関係になるだけでなく、誰もが自分を無視できない力を持った存在として扱ってくれる。時に警戒され、時に頼られて過ごす、二次元での日常は最高に楽しかった。
二次元のキャラクターについて語る友達は数人いたけど、そういう友達以外とは全く喋らなかったし家族との会話も煩わしいものだった。

そんな高校時代を送った私は、そのことを、微塵も後悔していない。あの時の私にはそういった"救い"が、フィクションが、必要だったのだ。息のしづらい時期を生かしてくれたフィクションには今でも感謝しかない。熱中するあまり、黒歴史と呼んでいいこともたくさんした。してしまった。でも、それでもフィクションは、私の救いだったのだ。

大学生になって一人暮らしをするようになり、私はますますフィクションにのめりこんだ。今度は腐女子として、そして小説書きとして。現実はやり過ごすだけのつまらないもので、私の本当の世界は私の頭のなかに広がっている。頭のなかに広がっているその世界のことを考えると、たとえ現実でレポートの〆切が迫っていても、一瞬で幸せになれた。
二次元も、自分で作り出した物語も、楽しいばかりではなかったけど、色褪せた現実世界より遥かに魅力的だった。

フィクションと現実のバランスこそ

そんな二次元を、黒歴史として扱ってしまわないで。たしかに、二次元にどっぷりで現実を生きていない状態は「異常」だったのかもしれない。でも、二次元は、フィクションは、求めに応じて救いを返してくれていた。一時期でも自分を救ってくれたもののことをどうか否定しないでほしい。それはその時期そうやって救われていた自分自身も、作品を生み出している作者の方々も、否定することになるからだ。

フィクションの世界にどっぷりで、現実が見えていなかった時期は私にもあったし、今も7割くらいフィクションに浸かって生きている。けれど、それを悪いとは思わない。逃避させてくれるフィクションが、二次元があるからこそ、つらい現実があっても、明日を生きようとか、もっと社会をよくしようとか思えるのだ。

要はバランスだと思う。フィクションに浸かる浸かる部分と、現実に浸かる部分。両方持っていればよいのだ。そしてそのバランスが、現実が破綻しない程度に自分で納得できるように、取られていればよいのだ。
何が言いたいかというと、好きだったものをそんなネガティブに捉えなくても、前に進むことはできるということだ。
黒歴史、私にもある。でもそのなかで私を救ってくれた二次元は悪くない。私の、救いだ。