何かおもしろいこと とか 上手な話 とか。そういう「話術」を持ったひとだけが好かれる狭い世界でわたしは育った。
ひとに何かを伝えたりおもしろく話したりするのが笑っちゃうくらいに苦手なわたしには 生きづらい世界だった。

「コミュ障」この言葉に、わたしは容易に傷つけられる

「oyama.の話はおもしろくないよねww」
「なんかいいオチがあると思ったのにそれだけかい(笑)」
こう言われるたびに まわりのおもしろいひとと自分を比べるたびに わたしは話すことから逃げた。みんなから好かれる「オモシロイ人間」になれないわたしは口を閉ざした。
世間話もウワサ話も恋バナも 全部苦手だから、誰といても自分から進んで話はできない。そういう人を、世の中では「コミュ障」っていうんだって。

「コミュ障」
人間の性格を半ば強引に決定づけるこの言葉に、わたしは容易に傷つけられる。でも同時に、この言葉を盾にして身を守ろうとする自分もいることに 気づかないふりはできない。
「わたしコミュ障だから~」ヘラヘラと笑いながらこう言うときのわたしは「話せない」「おもしろくない」わたしをまわりに指摘される前に 自らの手で自分を貶める。だれかに「つまらない」と思われることを恐れて。それでも周りから指摘されるよりはこわくないからと。
コミュ障を盾に 当たり障りのない笑顔とコメントで まわりに同調する。ヘラヘラとみんなに合わせて「マジウケる~(笑)」。こんなわたし、わたしのなりたいわたしじゃないよ。

芸術作品と向き合うことに夢中になった

小さい頃から読書や映画が大好きだった。
ダンスと歌で表現することが大好きだった。
わたしに「おもしろさ」を強要しないこのモノたちは、代わりにたくさんのおもしろい話をしてくれた。「話すこと」以外で自由に自分を表現することの喜びを教えてくれた。

だからわたしは 芸術作品と向き合うことに夢中になった。
なにか文を書けば「上手だね」「いい文章かくね」とほめられた。
なにか舞台に出れば「別人だね」とびっくりされた。
そんなふうに言われると ちょっと恥ずかしい気持ちになる。
でも わたしはひそかに気づいている。この姿が本当のわたしなんだよ。

大学でわたしを待っていた世界は、信じられないほど広かった

みんなとちがうから嫌われて 学校がいやだった小学生。
そんなコミュニティを絶ってちがう場所に飛び込んでみた中学生。
新しくて広い場所だと信じていたその場所も おもしろくないわたしには息苦しくて「あなたはわたしの下僕みたいなもんよ」と親友に言われた。同調は都合のいい関係でしかないのだと気づいた。
次こそはと意気込んだ高校生も、結局はダンスと勉強にすがったような3年間だった。
もっと広くて新鮮な世界を知りたくて 懸命に勉強した。苦しかった。

2年前の春。
すがる思いで第一志望の大学に入学したわたしを待っていた世界は、信じられないほど広かった。まるで、息継ぎをしないで25メートル泳いだ後に仰ぐあの空のように。
「好きなこと」を見つけ、究められるキャンパスと、その魅力に吸い寄せられた「好き」を求めるたくさんのひとたち。
わたしのように悩んできたひとたちと 生まれや見た目のようなもっと根本的な部分で容赦ない偏見と差別に苦しむひとたち。
そのぜんぶが 「おもしろくないから」と切り捨てるような狭い世界にわたしを縛り付けていたひもを少しずつほどいていく。

もうなりたくないわたしは捨てていいんだよ

相変わらず話すことは苦手だけれど、文章を書くことと身体で表現することがわたしの武器になり強みになった。
ちょっと変わった人間を「おもしろい」「魅力的」と認められる世界をわたしは見つけた。
好かれないことを恐れ ヘラヘラとまわりに同調していた数年前のわたしへ。
もう なりたくないわたしは捨てていいんだよ。

ひとの思いは 本当はものすごく大きなエネルギーを持っていて その大きなエネルギーを芸人はトークで 俳優は芝居で 小説家は文章で ダンサーは身体で 画家は絵画で
みんながみんな 思い思いのやり方で 表現するんでしょう?
そこにまわりからの評価や他人への同調なんていらない。
わたしがわたしらしくいられたら それでいい。それがいい。
へっぽこでも、下手くそでも、不安だらけでもいい。
だってその姿は 自分をごまかしているよりもはるかにずっと 好きでいたいわたしの姿だから。