「本当にまじめだよね!」友人に、親に、そして初対面の人に。何度この言葉を言われただろうか。わたしはその言葉を聞くと、胸の奥がちくっと痛む。

思い出してみれば、幼いころから「まじめ」な性格だった。長女だというのも、まじめになった理由の一つなのかもしれない。遅刻も忘れ物もほとんどしない。先生から頼まれたことはなんでも引き受けた。小学生の頃には学級委員長を任され、母が「あの子なら心配ないですよ、と先生に言われたのよ」と誇らしげに語っていたことを覚えている。

学年が上がるにつれ、その傾向はどんどん加速していった。優秀な子と思われるために、定期テストのたびにじんましんが出るまで勉強した。習い事も、家の仕事も、すべて完璧にこなせるように分刻みのスケジュールをこなした。けども、心のどこかでは当時から気づいていたのだ。わたしは、美貌も才能も持ち合わせていない。特別な人間じゃないのだから、高望みなどしてはいけない。けども、どうしても他者にすごいと言ってもらいたかった。だから、せめて自分ができそうな方法として、この道を選んだのだと。しかし、その真実から目を背けたくて、必死に努力することで見ないふりをして逃げていた。

「まじめないい子」は真っ先に「いらない箱」の中に入れられる

しかし、否応なしにその心の傷と向き合わされる場所がある。就活という名の、選別イベントだ。そこでは、社会にでる前の甘ちゃんの学生たちが、「あなたのありのままを見たい」という歯の浮くようなセリフを言う大人たちに仕分けられる。そして、その中で「まじめないい子」は真っ先に、「つまらないやつ」という言葉で「いらない箱」の中に入れられるのを、わたしは知っていた。だからこそ、せめて戦えるだけの方法を知ろうと思って、大学で開催されている就活講座やサークルの先輩方の残してくれた体験談を読み、まるで受験のように対策に対策をかさねた。でも、駄目だった。

あなたは、社会にいらないつまらない人間なのよ。特別じゃないから、あなたはいらないの。

そう面と向かって言われているわけではないのに、すべての大人が自分のことをせせら笑っているように思えた。見ないようにしていた膿が体からどんどんとあふれ出てくる。努力という名で固めた「まじめ」の仮面は、いつの間にかぽろぽろとはがれ落ちていた。「特別じゃない」という心の傷が空気にさらされ、ぐちゃぐちゃな気持ちの中で、それでも生きていくために、わたしは就活を続けた。大学に来てないような「ふまじめ」な人間ですら、簡単に就職が決まるはずの売り手市場で、わたしは一人、決めることができぬまま、気づけばセミの鳴く季節になっていた。

まじめという性格だったからこその強みが、結果につながったのだ

そんなときに、心からやりたいと思える仕事に出会えた。今まで目指していた業界に、別のアプローチから関われる仕事。もう、ここしかないと思った。
武装はほどけて、心身ともにぼろぼろだった。「うまいこと」など、何も言えない。武器になる「何か」もない。けども、必死に自分の言葉で、まじめでつまらない自分が見てきたこと、感じてきたこと、そして駄目な自分だけれどもどうしてもそこに入りたいという思いをひたすらに伝えた。その思いが届いたのかは定かではない。けれども、結果的に春から、わたしはその会社で働くことができるようになった。

内定の電話がかかってきたときは、半ば信じられなかった。なんのとりえもない、つまらない人間なのに、それでもいいの?そんな思いを抱えたまま、お世話になった方に内定の報告をした。すると、彼女はこう教えてくれた。
「ずっと自分と真剣に向き合って、この時期になるまで歯を食いしばって頑張った。最後まであきらめないっていう気持ちが、あなたの強みだよ」

その言葉を聞いた時、驚いた。わたしにとって、結果が出なかったら最後まであきらめず頑張ることは、決して特別なことではなく、当たり前のことだったから。しかし、自分にとっての「まじめに頑張る」という「当然」は、ほかの人にとっては普通ではない。確かに「つまらない」かもしれないけども、その一方で、だからこそ最後まで頑張れたのだ。

心の傷を覆い隠すために作り上げたまじめという性格だったからこその強みが、結果につながったのだとその時に初めて気づいた。見方を変えれば強みになることもある。そう気づいて、就活を通して、初めて自分を肯定できた気がした。

「まじめだから、今があるんだ」

自分のコンプレックスは、きっと一生完全になくすことはできないだろう。けども、今まで積み上げてきた日々、きっとそれがその傷を少しずつ和らげるきっかけになるのかもしれない。

「まじめだね!」と言われると、今でも少しドキッとする。でも、今なら心の中で一言加えられる。「まじめだから、今があるんだ」と。