2020年。25歳になるこの年に、私は「自分の人生の脇役」を卒業したい。

私は、何かやりたいことや言いたいことがある時、必ず頭の中でシミュレーションを行う。
「始めたところで失敗するかもしれない」「こんなことを言ったら嫌われるかもしれない」「お前ごときが、って笑われるかもしれない」……

人前に立つ仕事がしたかった。だけど、いつしかその夢は笑い話になった

中学生の時、将来は人前に立つ仕事をしたいと思っていた。
テレビの向こうでキラキラしているあの人たちみたいになりたい、つらい時に救ってもらったように私も誰かに元気を与えられる存在になりたい、と。

でも、その夢を知った友達はばかにした。
クラスの笑い者になった時、私が間違っていたんだ、私は“そっち側”の人間じゃないんだ、と思った。
そして、いつしか私の夢は笑い話になった。
「ま、私なんかには無理だから諦めたんだけどね」と言いながら、本当は苦しかった。
そんな簡単なことで諦めてしまった自分が情けなくて、「情けない」と思っていながら、もう一度進もうとしない自分が憎くて。

いつもどこかに「私なんかが」という気持ちがある

それからも私は、たびたび自分の気持ちから逃げた。
他人や環境のせいにして、“やらない自分”を正当化した。

そしてその先にあったのは、ただただつまらない日々だった。
毎日同じことを繰り返して可もなく不可もなく生きていたら、いつのまにか自分を見失った。

何のために生きているのか分からない。
分からないくらいなら、いなくなった方がいいんじゃないか。

そう思った時、ぐちゃぐちゃな感情の中に、これまでずっと心の奥にしまってきた「自分の世界を発信したり、表現していきたい」という思いを見つけることができた。

だけど、いつもどこかに「私なんかが」という気持ちがある。
アクセルに足を乗せるのが怖くて、いつだってブレーキを踏みながら「ああでもない、こうでもない」とシミュレーションしてしまうのだ。

こうやって文章を綴っている今だって、BackSpaceキーを連打したい気持ちを抑えている。

もっと素直に、ありのまま生きてみてもいいのかも

でも、もういいのかも、と思い始めている。
もっともっと素直になって、もっともっとありのまま生きてみてもいいのかも、と。

言葉を通して自分の気持ちと向き合っていたら、「私なんか」というフィルターの奥にある衝動こそが私の本心だと気付くことができたから。

もう、自分の気持ちを無視したり目を背けたりするために、私以外の人を「主役」にするのはやめよう。

これは、私の人生だ。
「私」というプレイヤーを動かせるのは、私しかいない。

今、やりたいことがたくさんある。「こうなりたい」という目標がある。それは、きっとすごく幸せなことだ。
実際にやるかやらないかは自分次第。
だったら、どんどんやってみよう。やってみて違ったならやめればいい。

そうやって自分の気持ちに正直に生きて、その中でもし結果的に誰かのためになったり、誰かを幸せにすることができたなら、こんなに素晴らしいことはないと思う。

これからの私は、失敗や誰かから嫌われるのを恐れない

25歳。100歳まで生きるなら、人生の4分の1という節目だ。
これからの私は、失敗や誰かから嫌われるのを恐れない。

みんなから好かれなくたっていい。変だと言われたっていい。笑われたっていい。
もう、自分を憎んだりしなくていいように、自分が愛せる自分になる。

一度きりの人生、思う存分「私」を生きていこう。