「『お姉ちゃんだから』という言葉を使わないようにしていた」。20歳を過ぎたころ、母が私に言った言葉が忘れられない。なぜなら、小さい頃の私は「お姉ちゃんだから我慢しなければならない」と強く思っていたからだ。

私はよく弟の面倒をみる、というお手伝いをしていた

私は、3人きょうだいの長女。きょうだい構成は、私、弟、弟である。私のすぐ下の弟が小さい頃かなりわんぱく小僧であったこと、一番下の弟が少し病弱であったこと、そして、当時母親が時おり原因不明の体調不良で寝込んでいたこともあり、私はよく弟の面倒をみる、というお手伝いをしていた。

弟たちの世話をすることはそんなに苦ではなかった。弟の幼稚園の準備をしたり、おむつを替えたり、靴下をはかせたり、ごはんを食べさせたり、宿題を見たりもした。弟たちは可愛かったし、なによりもそのたびに母親が褒めてくれたのが嬉しかった。

なんで?と思った。私が上の子やからか。私はそう解釈した

しかし、今持つ語彙を持ってすれば「理不尽」と思うこともあった。
小学1年生のとき、私の宿題のわら半紙のプリントが、弟が故意に(!)倒したコップのお茶でびしょびしょにされたことがあった。母親は「あんたがそこにプリントを置いているからあかんねん。大事なものはこの子(弟)の手に届かんところに置かなあかん」と私に言った。弟はしてやったり、という顔で満足げだった。

弟じゃなくて私があかんのか。弟や妹がおらん家やったらこんな思いしやんのやろうな。

弟のことをいやだとは思わなかった。弟がただのいたずらでやっただけのことで、私を困らせるためにやったわけではないことも分かっていた。でも、なんで?と思った。私が上の子やからか。私はそう解釈した。

母親はそのプリントを一緒に乾かしてくれた。私はその乾いてなおよれよれになったプリントを破かないように、慎重に鉛筆を動かして宿題をこなした。
さらに、私の連絡帳に一連の出来事を記し、私の過失ではないことを担任の先生に報告してくれた。そのおかげで、プリントがよれよれであるせいで私が責められることはなかった。それでも、自分のプリントがよれよれであることはなんだかバツが悪く、宿題を返されてすぐに机にしまった。

私が自分で「お姉ちゃんだから」とラベリングしていた

小さい子どもがいる家庭では、前述のようなことは日常茶飯事であると今なら分かる。キチンとしたいのであれば、自分で気を付けなさい、という母親の言葉の意味も今なら分かる。母親は、自分が子どものころ親から「お姉ちゃんだから」と言われていたのが嫌で、言わないようにしていた、という。そして母親は私に精一杯のフォローをしてくれたと思う。

つまるところ、私が自分で「自分がお姉ちゃんだから」とラベリングしてしまっていた。お姉ちゃんだからこそ、弟の面倒を見ることで褒められていたのだ。お姉ちゃんであることが私のプライドであった故に、それはなかなか剥がせないラベルとなっていた。
今でも、「長女っぽいね」と言われると複雑な気持ちになる。でも、弟二人が成長した今、「お姉ちゃんだから」という理由で何かを我慢する必要はない。

人様からみたらとても些細な出来事であろう。でも、私はこうやって文章にすることで、この経験をやっと昇華できたように感じる。
いくつになっても消えない傷もある。一方で、時間が経つことで価値観や自分に見える世界が変わり、踏ん切りがつくこともあるのだ。