2年ほど前に入社した現在の職場は「セクハラ罪という罪はない」発言に拍手喝さいしちゃうような古き悪しき男性社会である。ある程度覚悟はしていたが、いざ入ってみると予想以上に酷かった。
独身であると分かった途端に先輩から「女としての機能を使い果たしてから死ねよ。世の中のお荷物になるぞ」と言われた。飲み会の帰り道、酔っぱらった得意先の男性から羽交い絞めにされて胸を揉まれたり、私が吸っていた煙草を奪い、吸い口を自身のつばまみれにして私の指に戻されたり(私はこれをバイオテロと呼んでいる)。同じ部署の上司にそのことを話したところ「俺の友達を悪く言うな!」と激怒し、しまいにはその人から出張先の車中で胸を触られかけたりした。

地獄のような日々が続いた。「NO」と言えない自分が情けなかった

 これらは控えめに言っても地獄だった。相手に土下座して詫びてほしいし、重い処分が下れ!と心の底から思っていた。それでも私は「NO」と言うことも、怒ることもできなかった。むしろ、そういうことが頭をよぎる度に、こんなこともあしらえず解決できない自分が情けない、と思って余計落ち込んだ。

 次第に仕事中に涙が溢れたり、本が読めなくなった。夜になるとうなされてすぐ目が覚めてしまうので、大量の酒を飲んで気絶するように寝落ちしていた。毎日猛烈な二日酔いの中で仕事することが常態化してミスも増えた。カウンセリングにも行ったが、話そうとすると言葉が出てこず、頭が真っ白になってしまうので、結局通わなくなった。しばらくすると気持ちが落ち着いて前向きになった途端に別のセクハラ案件が浮上して、また病んでしまう。

酒臭い自宅で休日を迎え、ふと、自分が生きているのか、死んでいるのかよく分からなくなった。こんなことに自分の時間を割くのは無駄だと分かっているが、どうしても気になってしまい、そんな自分をまた責める。

心のどこかで、評価されている証だと思い込んでいた

 生まれてこの方秀でたものは何もなく、流されるように就職した。さして興味のある仕事ではなかったが、働き始めてみるとこんな自分でも誰かから必要とされていることが嬉しくて、気づけば仕事に没頭していた。仕事が感情、経験、創造、人間関係といった私の何もかもの源泉になっていた。しかし、それと同時に過剰に他人の顔色を窺うようになり、仕事で「NO」と言えなくなってしまった。そんななかでセクハラをされたことは、労働者としての私に興味を持っている、評価している、だから「NO」と言うのは違うのではないか、とどこかで思っていたのかもしれない。

 働くことの目的が、自分の成長や充実した人生ではなく、仕事のストレスから逃れるための酒代を稼ぐことになってしまったのは、他人にすべてをゆだねまくって自分を犠牲にしてきた結果ではないだろうか。働くことは人生において重要なことだが、自分のことも大事にできないうちは、他人のことも大事にできない。自分への不満を解消するために、女性という自分よりも弱いと思い込んでいる立場の人々を蔑んでいるセクハラ男たちのように。私はそんな人間には絶対になりたくない。

「それセクハラです」。振り絞った勇気は、ほんの少し周囲を変えた

 湧き上がる怒りと不満がようやく自分の言葉になった時、色んな事が吹っ切れた。そして、それを待っていたかのようにセクハラ加害者たちに再会した。飲み会の席で、毛むくじゃらの腕が私の方へ伸びた時、即座にそれを振り払い「やめてください。それセクハラですから。気持ち悪いです」と一喝した。その場は凍り付いたが私は何事もなかったようにウーロン茶を飲んで帰宅して久々にぐっすり眠った。後日、加害者のうち1名から謝罪を受けた。また、先輩が相談に乗ってくれたり、後輩から同じような被害にあったと打ち明けられた。基本的にノミの心臓で生きているので、言った瞬間は心底怯えたし、やっぱりまずかったかなと思ったが、最終的には頑張った自分を褒めている。

 セクハラに遭ってよかったとは断じて思わないし、問題が解決していないなか、私はこれ以上頑張ろうとも思わないし、自分がヒーローになったなんて到底思っていない。しかし、今ある女性たちの地位は、時代の先頭に立って闘ってきたフェミニストたちと、今もどこかで残業している女性たちの小さな「NO」の積み重ねによるものだと思う。私たちの生きている環境はなかなか変わらない。セクハラオヤジは今日も一足お先に退社して大酒を食らっているし、お局さんたちは新婚職員にセックスの頻度をしつこく聞いている。それでも私は黙らない。「NO」と言った先にあるものは、相手の負けでもなければ、私たちの勝ちでもなくて、別の自由への、自分たちが本当に大切だと思うものへの「YES」だから。