私は日本人らしくNOと言えない性質である。特に幼少期、私は周りの目を気にして、相手からどう思われているのかを考えて、とりあえずにこやかにYESと言うことが多かった。そんな私の小さな失敗をここで話そうと思う。

私は私立の幼稚園に通っていた。特段お金持ちでもなく、両親は当然共働きだった。毎朝、母に自転車の後ろに乗せられ、全速力で幼稚園へ向かう。私の通う幼稚園は行こうと思えば大学まで行けるエスカレーター式の学校だった。幼稚園の隣には小学校があり、道路を挟んで中学校、高校、大学があった。そして、幼稚園の周りには温水プールもあれば音楽教室もあり、習い事も充実していた。

私はあまり幼稚園が好きではなかった。だから、正直なところ細かいことは思い出せない。嫌いな先生がいたとか、友達と喧嘩したとか、給食がおいしくなかったとか、そういうことではなく、私は幼稚園に帰属することが好きではなかったのだ。それは、小学生になっても高校生になっても変わらず、私は所属意識が低いまま育った。

先生を追いかけ、着いた先は温水プールだった

そんな私の幼少期、ほとんど覚えていない幼稚園生活で忘れられない思い出がある。忘れたいのに忘れられないのだ。嫌な思い出ほど深く脳みその奥にへばりついている。

幼稚園はまだ日が明るいうちに降園時刻となってしまう。給食を食べて少し遊んだら終わりである。しかし、両親の仕事はもちろん終わらず、私は学童保育に預けられていた。とはいえ、幼稚園内に設置された学童保育で周りも見知った顔ばかり。先生も友達も知っている。私は安心して日々を過ごしていた。

確か体育館のような、お遊戯会をするホールのような、そんな場所で過ごしていた。子どもたちはホールの真ん中に列をつくり、先生から荷物入れのかごを渡される。桃色と水色のかごだった。桃色は女の子、水色は男の子、と思うかもしれないが、そうではない。桃色は親がすぐに迎えに来てくれる子、水色はしばらくしてから習い事に行く子、だった。先生は慣れた手つきで子どもたちにかごを渡し、列はどんどん短くなっていく。私は当たり前のように水色のかごをもらってホールの隅の方で一人遊びを始めた。

しばらくして、私は先生に呼ばれた。荷物を持って来なさい、それだけだった。子どもにとって大人は絶対的なものである。先生であれば尚更だ。NOと言えない私は訳も分からず荷物を抱えて先生を追いかけた。幼稚園を出て、道路を渡り、着いた先は温水プールだった。

怖くて仕方がないのに否定もできず、バタ足に勤しんだ

私はプールが嫌いである。プールに限らず、水が得意ではない。風呂も海もあまり好きではなく、今でも風呂に入るのが億劫である。

その日、幼稚園で水泳の授業があったのだ。だから、私の手には水着が握られていた。幼稚園のプールは屋外プールで底も浅く、水が嫌いな私でも多少は楽しめた。しかし、温水プールは大人用のプールである。底も深くて25メートルもある。しかも、温水プールは高校の施設ということになっていて、水泳を指導する先生は高校の体育の先生なのだ。私は知らない先生に引き渡され、更衣室へと連れていかれた。

当時の私の習い事は、ピアノと英語だった。水泳は習っていなかった。そして、その日は習い事のない日だった。私は桃色のかごを与えられるはずの子どもだったのである。今思えば、先生は間違えたのだ。私の荷物に水着が入っていたから、水泳の習い事に行く子だと思い込み、水色のかごを渡したのだろう。

そして、私もNOと言えずにそれを受け取り、濡れた水着に再び着替え、大嫌いなプールに入ろうとしていた。高校の先生も見知らぬ子どもが一人増えただけでは全く気づくことなく、水面をバシンバシンと叩きながら熱血指導を始めた。私は怖くて仕方がないのに否定もできず、なぜか乗り切るしかないと思い込み、バタ足に勤しんだ。プールの水なのか涙なのかわからなくなってきた頃、プールサイドから声がした。母の声だった。
迎えに来た母はどう思ったのだろう。学童保育に私の姿はなく、大嫌いなプールで泣いている私を。ただ私は安堵感でいっぱいだった。
翌日先生から謝られる、ということもなく、私は少しのトラウマを心に抱えて幼稚園へ通い続けた。

私が間違っていると思い込みすぎていないだろうか

先生は聖職者ではない。しかし、子どもから見れば絶対的な君主なのである。給食のピーマンを残してはいけませんと言われれば涙ながらに口に放り込み、靴は白しかいけませんと言われれば泥まみれになっても白を履き、水色のかごを渡されればYESと言ってそれを受け取ってしまうのである。

大人になった私はNOと言える人間になれただろうか。今でも相手の顔を見てYESと言ってしまう自分はいないだろうか。相手が正しくて、私が間違っていると思い込みすぎてはいないだろうか。

私は高校の水泳の授業以降、友達からの海やプールの誘いにはすべてNOと言って断ってきた。それはもしかしたら成長なのかもしれないが、二十代後半になっても私の最新の水着は高校時代のスクール水着なのだった。