あまたの褒め言葉を使っても、彼女を表現するには物足りないくらいに思えた。切れ者だったその子にしてみれば、私は学内有数のポンコツで、たまったもんじゃなかっただろう。仕事のまったく出来ない私を嫌っていてもおかしくなかったが、私はせめて好意を伝えたかった。言いたいことがあるから、最後の仕事の原稿確認の後に時間が欲しいと伝え、委員会室へと向かった。
原稿校正の最中、偶然「痴漢」という単語が出た。「痴漢にあったら、助けを呼んで一人で抱え込まないように。」とかだったと思う。すると彼女は、自分の痴漢被害の経験を話し始めた。
好きな人が私が知りもしないロン毛に触られたショックのあまり、私は血の気が引いた。あまり細かいやりとりを覚えていない。
辛かったね、と言うと人並みにしか寄り添っていないように思われそうで、「そうなんだ」と他人事にしか聞こえない第一声になってしまった。
好きな人に痴漢被害を告白されて
私の顔から衝撃が漏れ出ていたようで、彼女は「まあ、リュックだったら痴漢遭いにくいよ、手提げだったし」と二、三度繰り返した。「普通」の彼女は「普通」に見える私の衝撃を「男性からの性被害に遭っていない私はこの子より性的魅力に欠けている」という衝撃と読み取ったのだろうか。
共有される文化を下地に「同性の友人のショック」を解釈したらそうなるのだろう。違うんだ、あなたが好きなんだよ、とその時言う勇気があれば良かったのか。あなたがかわいいから痴漢するんじゃない。痴漢があなたを軽く見た。痴漢が女性への軽蔑で近寄ることを聡明な彼女がわかっていないはずがなかった。
以上のところは私の解釈なので、彼女が本当は何を思ったかはわからないし、実際こういう推測は的中率が低い。単なる邪推と一蹴すべきだ。しかし私の解釈だって共有知が下地である。ああ、自分に内面化されたミソジニー。悔しい。
加害者への怒りと葛藤
自己嫌悪はこのくらいにしよう。
彼女が好きで好きで堪らず、仮に薄気味悪いと思われても致し方ない好意を、なんとか悟られないよう、まごまご取り繕う瞬間もあった。そんな中、なんで痴漢、お前なんかが近付いているんだ。こう思って当然ではないか。彼女を触った加害者のその手が憎くて、やり場のない怒りがこみ上げてきた。加害者にバチが当たることを心から願った。
私は生まれる時代と家庭に恵まれ、同性に好意を持つことに対して、罪悪感・劣等感を抱かずに済んだ。それなのに、好きな人の痴漢被害で、なぜこれほどまでに男性へのルサンチマンを抱く羽目になってしまうのか。これを読む男性陣は「主語を大きくしすぎ」と思うかもしれない。決して否定してはならない意見だとは思う。でも私が何年も大事に接してきた人は大学に入っておそらく1年も経たずに、王子様には程遠い人間に掻っ攫われている。これからもそうだ。別に私が差別されているわけではないし、男性というアイデンティティを持つ人たちを憎むわけではない。ただ単に寝ているときに辛いだけなのだ。馴染みのある割には、あまりのリアリティが夢を夢だと気付くことを阻む、起き抜けの印象が最悪な悪夢。だいたいさっき話したような内容。その上での痴漢。これ一生?ずっと?好きな人変わっても?
ついに告白する時がきたけれど...
彼女と進めていた原稿校正も終わった頃、彼女から「さて、なんだ」顔で向き直られた。私はとうとう、ギロチン台に上ったような気持ちだった。
腕を机に載せても、肩と腕の震えが止まらないし、言おうと思っても喉が詰まってなかなか本当に言いたい言葉だけは、出てこようとしない。「ちょっと、待ってね……ちょっ」を繰り返して、時計を見ると気付けば15分も経っていた。ヘタレがすぎる。彼女は内容を先回りして聞こうとすることもなく、虚空を見つめるには長過ぎる時間、じっと待っていた。
結果はやはりだめだったが、「ありがとう」と言われた時には、「好意を伝えたいと思うほど、好きになれることなんて少ない。こっちがありがとうだよ」と思った。一方で自分の感情を予測するのは案外難しく、友情と信頼を転機に曝したことでの関係の変化を思うと若干不安になり始めた。時代錯誤なアウティングは怖くないのに。何も失うものはなかったはずなのに。そうして、さっきの痴漢の話が脳裏を掠めた。私だって、ほんのちょっと、ちょっとだけ、ちょっぴり、どうしても、彼女を性的な目で見てしまった瞬間がある。それは、程度の差はあれ、広義、超広義痴漢では...?そんな相手に彼女が「ありがとう」というのは、必要ない愛を免罪符に下心も許容するようなものだ。いや、許容はしてないが。
下心に塗り潰されるほど、彼女に対する気持ちは薄弱、あるいは下等なものではないとは思う。しかし、なんと言えば良いのだ。ぴったりとした答えはない。でもこの最適解のなさを感じた思いは忘れたくないものだ。