彼との別れ話は、よく覚えていない。

ただ「もう、君のことを好きだとは言えんのよ」という部分だけが頭を巡っていた。

交際してもうすぐ1年になろうかという夜。私は彼の家で、彼が銭湯から帰ってくるのを待っていた。オートロックはおろか、まともな鍵すら付いていないボロアパート。交際を始めたときは、防犯上の観点から絶対ひとりでそんなところにいたくないと彼に伝えていた。けれど1年近く経って、ひとりで彼の家にいるのも慣れてきた、そんなとき。

帰ってきた彼に、私は腕を伸ばしてハグをせがんだ。
彼は一瞬躊躇して、それから、そのことばを口にしたのだった。

「もう、君のことを好きだとは言えんのよ」

もう好きではないと伝えるチャンスはいくらでもあったのに

彼がポツポツとことばをこぼす。しばらく前から私のことが好きかわからなくなっていたらしい。私が言う「好きだよ」に、「おれも好きだよ」と応じることができずにいたと。

嘘とも言えないような、そんな嘘をどれだけ彼は重ねてきたのだろう。

仕方がないことだとも思う。好きかどうか分からないということを、直接相手に伝えるのは相当に難しい。彼はずっと悩んでいたのだろうと思う。

でも、好きだと言えないなら、私に触れないでほしかった。

私は何度も彼に好きだと伝えた。手を繋いで住宅街を散歩しているときも。彼のボロアパートで抱き合っているときも。そのままキスをするときも。

もう好きではないと伝えるチャンスはいくらでもあった。

でも彼はそうしなかった。私が彼に触れるのを拒まなかった。そして、自分から私に触れてくることもあった。
私はそのことが許せない。

からだに触れることを許すのは、一種の契約だ

言うべきことを言わないことは、嘘とも呼べないようなことかもしれないが、重大な裏切りであることもある。

からだに触れることを許すのは、一種の契約だ。ほかのひとには許さないことを、彼だけに許した。その条件は、私を好きであることだった。

彼にそう伝えたこともあった。私に触れる権利は、君に条件付きで貸与しているものでしかないからと。そのとき彼は腑に落ちないような顔をしていたから、伝わっていなかったんだろう。

ものすごく申し訳なくなって、元恋人の手に触れてしまった

私は新しい恋人と付き合いはじめ、そしてある日、その人のことが好きだと言えなくなった。
これ以上この人に触れてはいけない、と思った。この人に触れる権利は、私が相手を好きでいる間しかないのだから。

別れを告げたあと、私の家に置いてあったマグカップを渡すことになった。
新宿駅は混み合っていて、元恋人はなかなか待ち合わせ場所に現れない。

合流したとき、普段どおりの雰囲気だったので少し安心した。
向こうが話し出す。振られた日は一睡もできなかったこと。それでも出勤したこと。先輩に「自分は悪くないのに、振られたんです」と愚痴ったこと。

私は、ものすごく申し訳なくなって。一瞬、元恋人の手に触れた。

好きではない人に触れてしまったと気づいたのは、帰りの電車に乗ってからだった。
自分から振ったのに、泣けてしまう自分がとてもずるいと思った。