私は誰かの意見に対して「NO」と言うことに異常な抵抗感があった。それが明らかに自分にとって「NO」であっても、自分の中のそういう気持ちを鈍らせて「NO」と言わずに黙っていた。
ずっとそれを繰り返していたら、黙ってその場をやり過ごしたことになんとなく罪悪感を覚えたり、もっと本当は仲良くなりたいのに自分が言いたいことが言えなかったり、自分の立場を表明しないあまり人と疎遠になったりしてしまって困ったことが何度もある。だから今回、なぜ私は黙ってしまうのだろうかということについて考えることにした。
「次のデートでスカート履いてきて」と言われた時の違和感
手始めに、自分の黙ってしまった原体験を探ってみて、自分の肌感覚の黙ってしまったことに対する違和感に着目したい。
一番わかりやすく覚えているのは高校生の時だ。当時お付き合いしていた彼に「次のデートでスカート履いてきて」と言われた時のちょっとした違和感を私は忘れることができない。
当時はとりあえずスカートを履いていったけれど、デートで特にそれに対しての言及はなかったと思うし、単純に普段は見ない私の一面を彼は見たかっただけなのかもしれない。でも正直、私はスカートが好きではなくて、学校のスカートでもコンプレックスの足が晒されて抵抗があったくらいだった。でも「いやだ」と彼に言えば嫌われてしまうのではないかという無知な恐怖と、何よりも特に今ほど大きな疑問にも思わなかったのかもしれないという可能性もあって残念な気持ちになる。今となっては、私は自分が好きな自分でいるために服装を決めているから、同じように言われたら「どうして?」と思わず聞いてしまうだろう。
彼にも悪気は全くなかっただろうけれど、女らしさとしてスカートを履くことを私に求めていたのならやっぱりいやだなと思う。それに女であることは私の一部であって、全てではない。どんなことに自分らしさを感じて喜びを感じるかは人それぞれなのだから、対話抜きで一方的に他者を規定しようとすることは、私には窮屈に思える。今のお気に入りの服装は大体ジーンズにぶかぶかのスウェット、動きやすいスニーカーで、それで「かっこいい!」と言ってくれる友人に感謝している。
とにかく嫌われないようにすることが最優先だった
この体験をもとに、そもそも人とコミュニケーションを取る時に私は何を優先していたのだろうかと考えてみた。それは自分の意見を言うことよりも、人の気分を害さないことだった。
だから大体のことは「そうですね」と同調し、時には受け流すことができているつもりだったし、顔面は一応ずっと笑っていた。私の笑顔はすごく周囲の人から褒めてもらえて気に入っているけれど、時に自己防衛で笑顔を利用して疲れてしまうこともあった。とにかく嫌われないようにすることが最優先。けれどコミュニケーションの本質は、互いに何を考えているのかを把握することにあるのではないだろうかと私は思い直した。
誰も傷つかない発言は、何にも影響しないことと一緒なのかも
私は自分の意見を表明しないあまり、他者とのゆるやかな交流が非常に苦手になってしまった。直接自分に言われていなくても気分を害されたり、傷ついたりした記憶が頭にこびりついていて、自分の気持ちを言うことがすごく乱暴なことのようにさえ思っていた。「私が本当に思ったことを好きに言ってしまえば、その度に相手に攻撃的だと捉われたり、傷つけられたと思わせてしまうかもしれない」という思い込みがあった。そしてどこか自分が意見を発すれば誰かが傷ついてしまう可能性がゼロではないことに抵抗があった。
今考えれば、誰も傷つかない発言は、何にも影響しないことと一緒なのかもしれないとも思う。これは危険な考え方でもあると思っていて、むやみやたらに人を傷つけようという意図を持ってはいけないし、傷つけたからといって発言に意味があったなんてことが言えるわけでもない。でも自分の立場をはっきりさせる時に、ひどく人を傷つけてしまうかもしれないというリスクが伴うと「私が感じているだけ」なのかもしれないということに気づいたのだ。私が何も言わなければ、現状は良くもならないのと同時に、悪くなる一方でしかないのかもしれないのだ。
まずはダサくても発信することが大事だ
「NO」と言うことは相手の人間性を否定することではない。お互いの違いをはっきりさせることだ。特定のトピックに対しての意見のあり方だ。だから今ここで自分の感性抜きで少し冷静に考えてみると、自分のことを発信したり、表現したりする手段を持っているならそれらを使って「自分はこういう人間なんだよね、こういう気持ちがあるんだよね」と言うことは、周りの人も私を理解するきっかけになるのかもしれないと思った。自分の中に生まれた小さくて正直な声は、大切にしたほうがいい時もあるのだ。その小ささゆえに、自分で「人に言うまでもない」と取るに足らないものとして自分の気持ちを扱い続けた結果、自分自身や周囲の環境の変化を望んでも、すぐには変えられず苦しみ続ける未来が待っているかもしれないことを、私は今も身をもって日常生活の中で経験している。
何よりも大事なのは、自分の表現の仕方がかっこいいものである必要性はどこにもないということだ。確かに伝わりやすい技術はあると思うけれど、黙ってしまう癖のついた私にとっては、まずはダサくても発信することが大事だ。
選択的に沈黙の時間を作ることを実行していくのは時に効果的
最後に正直な気持ちを言うと、私は「黙っている」という状態を完全に否定したくない。ただ不可抗力で黙るのではなく、選択的に沈黙の時間を作ることを実行していくのは時に効果的だと私は考えている。
これまで記述したことと矛盾するかもしれないけれど、沈黙も含めコミュニケーションだと思うし、私が沈黙している間に相手が何か本音をこぼしてくれるかもしれない。黙っている人こそ何か言語化しにくい環境にいるのかもしれないし、一緒に頑張る仲間がいなくて諦めてしまっているのかもしれない。そして自分を守るために沈黙を望んでいて、望んでいなくともそうするしかないのかもしれない。私がそうだったから、そんな気がしてしまうのだ。
時代は黙ってしまう私たちに気づいて「どうしたの?」と声をかけてくれるほど優しいものではないと腹をくくるしかないんだろう。でも、沈黙を破ろうと勇気を出している人がいたら、耳を傾けられる自分でありたいと私は強く思う。