誰かと食事をしてお会計をするときにどちらがどれだけ払うかということにとても気を遣う、というのは多くの人が思っていることだと思うのだけど、私の場合はそれがけっこう根深く、それは相手が男性でも女性でも年上でも年下でもそうで、誰かと食事に行くことがわかっているときはかなり親しい間柄やよほど時間がないときを除いては1万円札を崩すのは当たり前、1,000円も100円玉10枚に両替してから向かい、きっちりワリカンできるようにしている。

最近はだいぶマシになったけれど、以前はワリカンならばワリカン、1円単位できっちり支払えないとむず痒く、10円とか100円も多く払ってもらったようなら申し訳ないような、相手を立てなければいけないような気持ちになっていた。もちろん誰に頼まれてもいない。相手もそれを望んでいるわけでもないかもしれない。それなのにどうして私は末席芸をしてしまうのだろうといつも自己嫌悪に陥っていた。老若男女誰しも多かれ少なかれ抱えるお会計問題が、私にとってどうしてこんなにもナーバスな話になったのか、まずは話を聞いてほしい。

「俺が奢ってやってんだから、なんかおもしろい話できねぇの?」

私がお会計問題に関して根深い執着を持っているエピソードは4年ほど前に遡る。 当時、私は25歳だった。

その日はパブで飲んでいたので、彼のことはパブ男と呼ぶ 。パブ男は知人の紹介で知り合った私より10歳ほど上の男性で、いつも上から目線でものを言う人ではあった。

その日はパブ男に「仕事早く終わったんだけど飲まない?」と誘われて、取材終わりに指定された新宿のパブまで駆け付けたのだが、開口一番「お前、俺と飲みに来るのにすっげぇボロボロの顔で来んのな」と言われた。私は驚いて何と言っていいかわからず「取材終わりだったんで。でもお待たせするよりいいかなって思って~」などと言いながら取り繕うようにして笑い、席についた。今だったらこの時点でコップの水を顔にぶちまけて退散だが、その頃は私も若い。できるだけ早く場を取りなそうとメニューを見ていると「今日は俺の驕りだから、好きなもの頼んで」と言われた。確かに急な呼び出しだし、10歳も上だし、私が彼でもそうするなと思いながら「えーっ、うれしいな~、ビール飲んじゃお」と言って、600円のビールを注文した。飲み物が来て乾杯をして、私は内心ホッとしていた。いろいろと思うところはあったけれど、飲み始めて和やかなムードになればそれでいいと思っていた。

600円だが奢ってもらう手前もあり、また、最初の気まずい雰囲気も手伝って、私は何かと気を遣っていた。しかし、乾杯から10分ほど経ってから、彼の様子がだんだんとおかしくなってきた。どこか体調でも悪いのかというほど、何かを我慢しているような表情をしながら小刻みに震えている。「どこか悪いんですか?」と尋ねてみた。すると、パブ男の口から思いもよらない言葉が飛び出した。

「お前さぁ、俺が奢ってやってんだから、なんかもっとおもしろい話できねぇの?こっちは仕事で疲れて女の子と飲んで癒されたいって思ってここに来て、金まで払ってんのにさぁ」

びっくりした。あまりにあり得ないことが起こったので気が動転してしまった私はつい「ごめんなさい」と口走ってしまった。今ならば、「奢るのはあなたの自由ですがそのことによって私の自由が阻害されるものでもありません、私はあなたの下僕ではありません」と言い返せる。でも、道を歩いていてすれ違いざまに顔面を殴られたらびっくりして謝ってしまうように、気が動転した私は咄嗟に謝ってしまったのだった。後悔しても仕方ないが、そのことは今でも悔いても悔いきれない。

私から謝罪を引き出したパブ男はよし来たとばかりに、「じゃあおもしろいこと言ってみろよ」と言ってきた。私はわけがわからないまま、話が下手なりに自分の持っているエピソードを披露したが、次から次へと「は?それで面白いと思ってんの?」と棄却される。レンガを積む義務もないとわかっているのに積んだレンガを片っ端から蹴られ崩されるような仕打ちに耐えかねて、私は発狂しそうになっていた。

自尊心がボロボロになり、混乱状態にある私に、パブ男はこう言い放った。

「楽しい話もろくにできないんじゃ、ホテルに一緒に行ってもらうしかないよなぁ」

人生で指折りに屈辱的な瞬間だった。今なら、強くなった今なら、今の私のまま時間を遡れるなら、コップの水を、ジョッキのビールを、罵詈雑言と一緒にぶちまけて店を出ることができる。彼の発した言葉を丁寧に拾い集めて並べ、どこがどのように無礼で品位を傷つけることなのかを説いて謝らせることができる。だけど、そのときはできなかった。悔しい。とても悔しい。 結局その日は悪くもないのに「すみません、本当にすみません」と謝り続けて最悪の展開は免れた。元気と正気を取り戻した後日、iPhoneの液晶にして8スクロール分くらいのド正論を敷き詰めて送り、研いだ言葉できっちり殺したが、その屈辱が、私の「お会計」について観念を拗らせることになる。

あの屈辱的な思いを二度としまいと「絶対ワリカン」になった

パブ男の一件があってから、私は深く反省した。そして、二度とあんな目に遭わないようにと、男性と食事に行っても会計は絶対にワリカンにしてもらうようにした。

今となってはパブ男のような人間は稀で、奢ってくれる人も「マナー」かご厚意でやってくれている人がほとんどだということや、パブ男のような立ち居振る舞いをされても言い返して立ち去ればいいだけの話なのだということはわかる。けれど、怖かった。あんな思いをさせられる可能性のあるシチュエーションを徹底的に避けたくて、ワリカンをすればそういう思いをさせられずに済むと思った。

だから、ご飯に行くときはもちろん、ホテルに行くときもワリカン。あるいは相手が出してくれたらその次は自分が払う、といったように交互に払うようになった。ワリカンにすればフェアになれる、というのもチンケな観念だし、努力のベクトルは間違えていたかもしれないが、私にとっては私を支える大事な信条の1つだったし、自分では「きっちりワリカンで払える私」をとても誇りに思っていた。しかし、その一生懸命に補強したハリボテの自信も、ある一言で崩れ落ちることになる。

女友達からの「“奢る価値のない女”なんて超可哀想」

ある日、私は女の子数人と飲んでいたときのこと。ある女の子が「最近デートをしている人がワリカンであり得ない。私とデートするのに全額払わないなんてどういうことだ」と話し出した。私はびっくりして彼女の話を聞いていたが、その場にいる全員がうんうんとうなずいているので、私はいたたまれなくなって「私はいつもワリカンだけどな」と言った。

すると、人数×2の視線が私に一気に注がれ、刺し、彼女たちは恐らくはとても素朴な気持ちで、なんでどうしてどんな文脈でそうなるのと質問を投げかけてくる。私はそのひとつひとつに応対しみんな黙って聞いていたが、先の話を始めた女の子が話し終えるか終えないかのところで、もう我慢できないという感じで、「信じられな~い」と話を遮って入ってきた。そして、こう言った。

「え~? ご飯代だって払ってもらうの当たり前なのにホテル代も払うことがあるってどういうこと? それでいいの?奢る価値ないって思われてるってことだよね? 超可哀想~!」

お会計問題に関して二度目の衝撃である。奢られることで自由を奪われると思っていたからこそ半分払い、それによりフェアになった気になっていた私にとって「半分払って可哀想」はまさに寝ている耳に水を注がれたようだった。それなのに、周りの女の子たちはその子に加担するわけではないが、こちらの肩を持つでもなく「今度からは払ってもらいなね」と“やさしい”まなざしを向けてくる。座っていた掘りごたつ席の自分の位置だけが数段ガガガと地下へ沈んだような心地がした。

払われても否、半分払っても否、恐らく全額払うのはもっと否で、私はどうするのが正解なのかまるでわからなくなってしまった。奢ってもらえているかが大切にされているかどうかの直接的な価値ではないことは頭ではわかっていても、世の中の女の子たちが奢ってもらうのが当然の世の中で私だけが“うまく”奢ってもらえないのは、やはり私に非があるのではないか。

かくして私は、お会計をするたびに過剰に挙動不審になる「お会計恐怖症」に数年間悩まされることになる。「奢るよ」と言っているのにレジ前でオドオドとされては奢るほうも気分が悪かっただろうなと今になって反省はしているが、当方には当方でそうした事情があったのだった。そのときは感謝しても誰にいつ何時どのくらい奢ってもらったのかは忘れてしまったので、奢ってくれた皆さんが偶然この記事を読んでくれることを願いたい。

ホテル代を全額奢られることへの“買われている感”

自分が年を重ねて性別問わず年齢が若い方より多めに払う機会が増えたことで「お会計問題」への抵抗感はだいぶ薄れてきた。パブ男のような人間ばかりではないこともわかってきたし、昔よりはスマートに奢り奢られるようになった(気がする)。

しかし、ホテル代の半額や交代で全額払ってきたことについて、それを友人から哀れまれたことについてはモヤモヤした忸怩たる気持ちが残っていた。最近はホテルに行く機会もないけれど、今度そういう機会があったらどういう顔をしてパネルの前で時間をつぶせばいいのだろうと考えると一気にそうした機会が不安になってくる。

「ホテルのお会計をどうするか問題」については最近拝読した、恋バナユニット「桃山商事」の対談集『モテとか愛され以外の恋愛のすべて 』(イースト・プレス)の「恋愛とお金」の章で話し合われている。

ここでは、「ラブホのお金をいつも男が払うのは納得いかない」と話す男性の話や、ホテルのフロントで半額を払おうとしたら「そんなことをする女は見たことない。やめろ」と止められた桃山商事の女性社員・ワッコさんの話などが登場するほか、食事に関しても世代や男女間という大きな区分けだけでなく、個々人の奢り奢られの価値観の違いが大きいという事例がいくつも紹介されている。

「ホテルのお会計をどうするか問題」の中でも特にハッとさせられたのは、ワッコさんによる以下の指摘だ。

たとえば飲み会だったら、「男のほうがたくさん食べたり飲んだりしてるから」っていう理屈が一応通るじゃないですか。でもセックスには、そういう違いはないわけで……。謎だなぁ。発射は課金制なんですか?

『モテとか愛され以外の恋愛のすべて 』(桃山商事/イースト・プレス)

この仮説に基づくと“発射”にお金を払われた以上、対価として満足させなければいけないというプレッシャーがあるとワッコさんは話す。この意見には私も何度も頷いた。自分のパフォーマンスや身体にそんなに自信がないので、半額払って少しでも安心して事に挑みたい。

桃山商事のお三方による仮説はその後も続き、何も考えずに“そういうもの”として奢っている人が多いだろうという前提はありつつも、

「(食事を)つきつめていくとセックスに行き着くから、『おごられると気持ち悪い』って女性がいるのかも?」という仮説や、「カップルの場合はホテル代もワリカンが多く、そこで男が全額払っちゃうと“売春感”が出て気持ち悪く感じられるのではないか」などと論を進めていく。

奢り奢られ問題という個々人によって価値観の違いが出やすいものだからこそ、ここで話されていることのすべてに頷けない人もいるとは思うけれど、いろいろな価値観があるのだという事実を知って、少なくとも私は救われたのだった。

「あのホテル代は支払うべきじゃなかったんじゃないか」という些末な後悔は消え、楽しかった夜の思い出だけが残った。今度そういう機会があったら「ホテルの会計は払いたい派ですか?」とホテルに行く道すがら聞いてみたい。

奢り奢られ文化は遊びでスパイス

私のラディカルな「お会計恐怖症」の話に長らく付き合わせてしまったけれど、今の私個人としては奢り奢られ文化はあってもいいと思う。実際に、奢られるのが苦手だった私でも信頼している方にコースディナーに連れて行ってもらって夢を見せてもらったこともあるし、自分より若い方とお話をして楽しい時間を過ごしたら、義務というよりもささやかなお礼のつもりで払わせてもらいたいこともある。男友達に1杯だけ奢ってもらったことがちょっとうれしいと感じることも正直言ってある。私はあまり興味がないけれど、高級レストランに行って男の人に奢ってもらうことをステータスや日々の楽しみにしている人もいるだろうし、女性を良い店に連れていくことを矜持にしている人もいるだろう。それをダサいとか時代遅れというのは個人の主観で自由だけれど、楽しみ方のチョイスは多いに越したことはないというのが私の考えだ。

男女に限った話ではないが、奢り奢られはちょっとした“遊び”であり、スパイスだと私は思う。「お金を払っているのだから」と傲慢になる人やそういう人に“黙らされる人”がいるのは許せないし、遊びやスパイスであるからこそ、苦役や舌が麻痺するほどの刺激にするのは単純にもったいない。

「奢ってやってるんだから楽しませろ」と言ったパブ男や「ホテル代を払うなんて可哀想」と自分の価値観を押し付けてきた女友達。そして、奢られたらヨイショしなくてはいけないのではないかと警戒し、レジ前で挙動不審になったり、頑なに1円単位までキッチリ払おうとしていたりしたかつての私のような人が1人でも減るといいなと思う。

illustration :Ikeda Akuri