「良い人ねー、もうみんな結婚しちゃってるんだよね」
私の現在の最大のコンプレックスはもう少しで30歳を迎えるのに未婚、かつ彼氏もいない。パートナーと呼べる人がいないことだ。
学生時代から付き合っていた彼氏とは3年前に別れた。
その後、なかなか好きな人ができなかった。婚活といいながら好きな人をつくりたくて毎月目標数を決めて様々なイベントに足を運んだ。合コン、婚活パーティー、趣味のイベント、街コンとイベントをこなし、連絡を返し続ける日々を送った。
好きな人ができても、玉砕
もういい加減疲れたというころに、婚活の場ではなく、職場で好きな人ができた。ところが今度はうまくいかない。本命の相手として扱ってもらえず玉砕である。忘れるために婚活を再開しようとしても、あれだけ時間を費やして頑張ってもなかなか好きな人はみつからなかったことを思い出し、なかなか重い腰は上がらない。だって、あのころよりも歳だってとっている。それでも、知り合いに会った時には、「誰か良い人がいたら紹介してくれないか」と頼んでまわった。そこで返ってくるのは、冒頭のセリフ。「そうだよねー、知ってる!」と笑いながらとため息をつく。
恋愛のマニュアルは巷に溢れている。納得できると思ったマニュアルを実践してはみる。でもそのマニュアルをこなしていると、自分と同じ名前の誰かを演じて生きているような気持ちになってくる。自分ではないものにならないと、パートナーを得ることは叶わないのか。
でも私は石原さとみのような美女でもなければ抜群のスタイルも持っていない。料理をしないわけではないけれど、大したものは作らないし、三歩下がってついていきますというタイプでもない。かといって、逆に男性を囲えるほどの経済力もなければ、誰にもない個性的な感性とか、突き抜けた自我みたいなものも自分の中に見当たらない。自分そのものでいたところで中途半端で凡庸だ、とよく思う。そんな自分を婚活市場に並べてみても、どれだけの値段で売れるというのだろう。
会社で賞をもらった「こんなもんか」と思った
そうやって恋愛に頭を悩ませている間に、会社で賞をもらった。この賞は多くの社員が目指し欲しいと思っている、以前から憧れていた賞だった。賞というステータスが手に入ったら、自分に自信が持てると思っていたから成果を出すための努力をした。そうして、念願だった賞が手に入った。
嬉しかった。でも、こんなもんかと思った。思っていたより、嬉しくなかった。
頑張ってたどり着いたら安心できる何かが手に入ると思っていたのに、その先の方にはただ違うゴールらしきものが待ち構えているだけだった。
パートナーだって、多分そうなのだ。私がいま苦しんでいるのは、パートナーがいない寂しさそのものよりも、「結婚」という多くの人が手にしているステータスを自分が手に入れられないことのようだ。そのステータスを目的にして、努力して頑張ったところで、手に入れてしまえば、たぶんまだ寂しい。
「結婚できない女の特徴」なんてツイートなんかを見つけて、これ私のことだなと落ち込む。「女性の幸せは結婚だけじゃない」という一般論を信じる一方で、誰が言いだしたのかわからない「30歳までに結婚すべき」という価値観に焦らされる。周りの大人やいろんなメディアから見聞きしたことから「女の幸せは家庭をつくることだ」、「30歳を過ぎたのに結婚できていないなんてみじめだ」とか「女の賞味期限は20代までだ」とか、どこかで自分も捨てきれずに思ってきたのだろう、こんな呪いを自分にかけた最後の犯人はどうやら私だ。
「結婚すること」が人生の優先順位1位の人ならば、今の私は大失敗だ。けれど、結婚していない私を現実世界で直接責めてくる人なんて誰もいないし、私はそこそこ充実して楽しく過ごしてもいる。自分を幸せそうに見せるための「結婚している」というステータスは本当に必要なのか?自分でかけた呪いは自分で解こう。
でも自分の奥底の思いを言えば、結婚したい。それはステータスじゃなく、一緒に生きるパートナーが欲しいということだ。例えば仕事で大変な思いをしたって、味方でいてくれる人がいる、安心できる帰れる場所がある。相手にも自分をそんな存在として思ってもらう。一人では体験できないことを二人で体験して、そうして、一人で居るよりもこの人と一緒にいたほうが自分の人生が広がる。そう思えるパートナーが欲しい。
夢見ているようで恥ずかしいけれど、本音の切なる願いはそういうことだ。
こう認識したところで、ステータスがない苦しさや焦りがすべて消えるわけではない。けれど、本当の願いをちゃんと見定めておかなければ、達成してもきっとさらに苦しい日々が待つだろう。ステータスを求めるだけの婚活は、20代とともに卒業してしまおう。