高校生の時、「私はなんてブスなんだ」と泣いていた。彼氏なんてできなかった。母親はばっちり二重の美人で、自分は重いだぼっとした一重だ。「化粧しても全然変わらない。でもすっぴんで生きるわけにはいかない」と自己否定をなぞるようにメイクしていた。

重苦しい思春期から数年。泣きながら「私は可愛い、美しい」と唱え続けた結果、自分の容姿を受け入れて「まあ悪くないかな」と思えるくらいに私は成長した。彼氏ができ、私は男から見て少しは魅力的な容姿なんだと実感できたのも大きい。しかし未だに美人を見るたびに落ち込む。嫉妬も僻みも感じる。鏡があるたびに自分の顔をチェックし、財布の余裕はないのに1万円もするファンデーションを買ってしまう。基本はあまり変わっていない。自分の容姿に対する執着は半端ない。

しかしそれでも、本当に前よりマシなのだ。今日の服のバランスを考えながらメイクボックスからアイシャドウを取り出す時や、デパートで自分の顔とマッチする運命の色を見つけた時、心底女でよかったとときめく瞬間は確かにある。顔と心が浮き立ち、鏡に向かって微笑む時、私は美しいと素直に思える。たとえ次の瞬間、やっぱりブスだと落ち込んだとしても。

自分の容姿に満足し、肯定したい

どうして私は、綺麗になりたいのだろうか。泣きながら鏡に向かって「私は可愛い」と自己暗示するほどに美に執着した理由は何なのか。その答えは、自分のことを好きになりたいからだ。自分の容姿に満足し、肯定したい。そして自分の美しさを見つけ出せる自立した女性になりたい。綺麗になって周りにちやほやされて、認められたい、自分には価値があると感じたい。

ここで私は気づく。自立できる美しさを求めながら、自分の価値を他人の視線に依存している。なんか、めちゃくちゃ矛盾してないか。

「女性はお花と一緒。綺麗にしていると場が華やぐ。職場の華」。女性向け自己啓発美容本に書かれている言葉にも、ざらっとした違和感を覚える。「綺麗になりたい」と強く思いながら、周りから花の役割を求められるのは、嫌なのだ。女性は美しくあるべき、という無言のプレッシャーに反対方向に走り出したい。美しくなりたいのに、それを強制されるのは嫌。社会のルールに取り込まれているからこその欲望なのではないか、とまで思う。

一方、愛されるための美を超えて全部まるごと自分の人生を肯定し、一人ですっくと立つ女性も存在する。「私、誰の人生も羨ましくないわ」というコピーがある。潔く言える内面の美しさに心を奪われた。この女性も、きっとコンプレックスに苛まれる時期があったはずだ。一段ずつ階段を上がるように、理想と現実に傷つきながらも自分を肯定するプロセスは、泥臭いながらも輝きを放っている。ありのままの自分を受け入れて、自分で育てた揺るぎない自信こそが一番美しい、と言い切れる強さがあったならよかったのにと心底思う。

モテに反発しながらも、できればモテたい

まだそこまでの境地に達していない私は、自分のために咲かせる花と人を魅了するために咲く花、両方欲しい。モテを全面に押し出したメディアを白い目で見ても、できるならばモテて気分よくなりたい。

ツヤ肌血色感愛されモテ美容に自分を同化させられる可愛い子から、男を誘惑するあざとさを盗むのもやぶさかではない。でも媚びるのではなく、自分だけの魅力も探したい。花になりたいと思いつつ花の役割を求められたくない。

大きな矛盾を抱える私は、花が咲く果樹になろう。木は倒れないし、アンチエイジングなんて知らない、だって年輪を重ねるごとに味が出る。どっちつかずの自分に軽く突っ込みを入れる。まあこのくらいのスタンスの方が自尊心もモテも両方ゲットできるかな、と思う私は、欲深い。結局、誰のためであっても装うのは楽しい。美しいと自画自賛した後にブスだと急降下するような、不完全な私だ。でも、コンプレックスも糧にして、枯れずにむしろ自分を更新していくような、そんな木になれたなら。あでやかに笑う自分を想像しながら、どんな気分であってもいつも私は、鏡に向かって微笑むのだ。

ペンネーム:滝薫

元美容ライターの人生模索中ニートみたいなライター。最近は短歌詠みながら焦ってます。学生時代はすっぴんで三限に遅刻する自堕落さだったが、最終的には口紅コレクションが40本を超えるくらいの美容オタクになりました。
Twitter:@Hannahkuku0819