私は“母の人生”を歩くことができなかった。
自分の人生を歩きたいと思ってしまった。
足の裏をしっとりした土に乗せ、とんとん、と踏みながら揉みほぐす。そうして、柔らかくなった土に種を埋めたい。“私の人生”という、新しい種を。

いいお母さんの娘として生きなければならない

思えば、私はいつも“母の人生”について考えてきた。実父の家庭内暴力が原因で私が2歳の頃に離婚した母は、表舞台で輝く仕事をしながら、自宅では父親・母親の二役を担った。
「なるべく手料理を」と三食まとめて用意し、慌ただしく家を出ていく日もあれば、仕事が長引いたのか遅くになっても帰らない夜もあった。
「家に大人がいないときは火を使わない」という約束を律儀に守っていた私は、とろけるチーズを小皿に乗せて電子レンジでチンして食べた。こってりしていて味のないそれを胃の中に流し込んでは、ママ、まだかなあ、なんて考えながら時計を見ていたことを覚えている。

母はロボットのような人間で、おそらく感情を殺して生きていたのだと思う。いつもニコニコしていて、礼儀には厳しいけれどめったに怒らない。「疲れた」「忙しい」は一切言わず、家事をこなし、クライアントと誠実に向き合う、素晴らしい人型ロボット。

実際にその「素晴らしさ」は露出の材料になり、雑誌で母が「女手ひとつで3人娘を育てるお母さん」として取り上げられたこともある。学校では先生から「記事、読んだわよ。いいお母さんを持ったわね」と声をかけられることもあって、そのときは笑顔で頷いたし、自分もそうだと思っていたけれど、そのたびに「“いいお母さんの娘”として生きなければいけない」と刻まれた。

もちろん、私も“いい子”だったわけではない。姉妹で喧嘩をしては「早く帰ってきてよ」と泣きながら留守電を入れたし、母の匂いが染み付いたタオルケットはお守りで、いつの間にか私のものになっていたし、母の真似をして「恐れ入ります」をいつか言おうとこっそり練習していた。そのくらい、母が大好きで、私の全てだった。

それぞれの人生を背負う それが我が家の生存戦略

そんな母は、私たち“娘の人生”を生きてきた。「娘たちの父親になってくれる人と」と母が再婚した、私にとって二番目の父はいわゆる“ヒモ”体質で、母は3人娘に加えて父をも養う、一家の大黒柱だった。
しかし、そんな生活も長くは続かなかった。「娘のために」結婚し、「娘のために」別れる。母はいつも“娘の人生”を想い、働き、生きてきたのだった。

この“母の人生”・“娘の人生”というのは何とも不思議で、それぞれが自分の足で己の人生を歩めばいいものの、きっと、お互いがいないと生きられない関係になっていたのだと思う。私は“いいお母さんの娘”として、母は“3人娘を育てるお母さん”として自分を奮い立たせることもあっただろうし、それが生きる意味だった。

女4人、お風呂に入りながら今日の出来事を報告したり、深夜には母と姉が英語で“大人の”会話をしていることにヤキモチを妬いたりと、いろんなことを経験しながら、私たちそれぞれの人生を背負った。それが、我が家の生存戦略だった。

再婚した母は、ロボットから人間になっていた

時は過ぎ、姉は結婚して、母には恋人ができた。私たちは「ついにきたか」と意気込んだ。
“母の人生”を生きる私は、母に恋人ができたことを受け入れようと、ちょうど大学進学と重なったこともあり、家を出て一人暮らしをすることになった。

それから、大学中退や就職などいろいろなことがあった。1年ほど経った頃、私は体調を崩し、実家に戻ることになった。

そのとき、母は「一緒のお墓に入りたいと思ったの」と数ヶ月前に再婚していたことを告げた。恋人の入院を機に「何かあったときに一緒のお墓に入りたい」と決意したそうだ。

実家に戻った私は、再婚よりも、母がロボットから人間になっていることに驚いた。いつもニコニコしていた母が、悲しければ泣くし、疲れたときにはげっそりした顔をする。表情をコロコロと変えながら話す母を見て、悟った。もう、母は“娘の人生”を歩まないのだ、と。

母と再婚相手と私たち3人は“家族”として、1年半ほど同じ屋根の下で暮らした。

心のどこかで母に「娘の人生」を歩んでほしかった

私は“母の人生”を脱することができなかった。SNSでは母の素晴らしさ、愛を語り、喧嘩をすることはあっても、家では母が気持ちよく過ごせることを大切にした。

女4人で暮らしていた時はお風呂上がりに全裸でリビングをうろついていたけれど、ともに過ごすようになってからは常に下着を身につけた。夫婦はお揃いの、私は違う箸を使った。大切な思い出を積み重ねる一方で、私は、その些細な変化に傷つき、“母の人生”の欠片を拾い集めては胸の奥にそっとしまった。

母に“母の人生”を歩んでもらうことを望んでいたはずなのに、きっと、心のどこかで母には“娘の人生”を進んでほしかった。何かあればいつでも私の肩を持って欲しい。辛いときには抱きしめてほしい。そんな想いで少しずつ膨らんだ心の風船は、いっぱいになって弾けた。

母は離れていく。3人娘を成人させ、自分の足で大地を踏みほぐし、“母の人生”の種を植えた。芽が出て、花が咲く。きっと、枯れそうになっても水を足して、潤いある“母の人生”を着実に歩むのだろう。

そろそろ私も“私の人生”という、新しい種を蒔く時期なのかもしれない。母は、“母の人生”を。私は、“私の人生”を。生まれて20年、3人の“父親”ができ、家のなかも、戸籍も、くるくると変わったけれど、また新しい“家族”の形になりそうだ。

私はこれから、“私の人生”を歩みます。