わたしの父親は、すごい人だ。途上国で貧しい人達のために医者として活躍している。父親の事を知っている人は、「〇〇先生の様なお父様をお持ちになってご自慢でしょうね」と尊敬の意を込めて言い、子供の頃から学校の先生も同級生もみんな「〇〇ちゃんのお父さんすごいね!」と言われていた。いつしかわたしは、そんな「すごい父親」の娘である自分であることが嬉しくたまらなかった。

暴力を振るった父

父親の暴力を初めて受けたのは、小学校6年の時。数年前から、母親に暴力を振るう父親を見ていたが、自分自身が直接暴力を受けたのはあれが初めてだった。塾をサボったわたしに父親がブチ切れて、鼻を殴られた。母親が必死に父親を宥め、しばらくして洗面台の鏡で自分の顔が血だらけになってるのを確認した所で記憶は終わっている。

中学生になると父親と母親が別居し、わたしは父親と二人で住み始めた。
父の暴力は直らなかった。頭に血がのぼると、わたしの長い髪の毛を引きずり回して壁に投げた事もあれば、お尻を蹴って骨にヒビを入れたこともあった。逆上した父親がナイフを振り回して過呼吸が止まらないこともあった。
母親をはじめとする家族に相談すると、「パパは本当にひどいね」の次には、「パパの暴力は直らないから、怒らせないのが一番良い」という言葉が出てくる。「我慢する」以外の具体的な解決策は一向に出てこなかった。

「よい父親」でもあった

暴力的な側面もある父親は、「良い父親」でもあった。中学生の頃は毎日、仕事から帰ってくるとに数時間かけて勉強を教えてくれて、高い私立の学費を払い、扱いにくい思春期のわたしの朝ごはんとお弁当を毎日作り、何不自由を与えない様に務めてくれた。
目標に向かっていく仕事での彼の姿勢に、尊敬もしていた。
殴られる事は怖かったが、外部に相談する事で今の自分の環境や生活が変わる事はもっと嫌だった。父親と二人暮らしをしていた6年間、わたしは殴られる度に「パパは暴力的だけど、すごい人」と自分に言い聞かせ続けた。

大学生になり、わたしは一人暮らしを始めた。一人の人間としての自分が独立されていく中で、わたしは「父親の娘」ではない自分の可能性や長所を見つけていった。自分の事が好きになる度に、父親に対しての違和感は増えていった。

一人暮らししても殴られる夢を見る

気分の浮き沈みが激しくなり、電話越しで話す父親に対して自分が憎悪を向けている事に気が付いた。父親に殴られる夢を度々見るようになり、父親からもらうアドバイス全て、彼が自分の価値観を左右しようとしているのではないかという妄想に陥るようになった。
そのうち、「人」に関わる事、会う事さえも嫌になり家にこもる様になった。精神科にかかると、「境界性パーソナリティ障害(BPD)」と判断され、父親にしばらく会わないようにと言い渡された。

その時、わたしは「パパは暴力的だけど、すごい人」の文章の決定的な間違いを見つけた。「暴力を振るうこと」と「すごい人」の二つの事実を、同じ土俵に乗せて「父親」としての彼を判断する材料にしてはいけなかったという事だ。

「but」は必要だったか?

「〇〇, but 〇〇」の思考回路は、度々人を混乱させる。「but」の前にくる文章へのウェイトを減らし、後に来る文章のほうが重要なウェイトも持つ文法を使って、同じウェイトを持つ二つの事実を表現してはならない。
同時に、思っていた以上に「父親の娘であること」へ自分が依存していた事にも気がついた。

父親の暴力が原因で発症した「境界性パーソナリティ障害(BPD)」の影響で、わたしは現在、他人と深い関係を築くことが難しい。

もし6年前に鼻血を流しながら鏡を見ていた自分と向き合えるのならば、「素晴らしい人間だからといって、人を殴って良いわけではない」、「あなたという人間は何を持ってなくても価値がある」と教えてあげたい。

あなたが日常的に自分に言い聞かせ続ける、「〇〇 but, 〇〇」に違和感や混乱を感じたら、「But」前後にきている文章を反対にしてみて欲しい。

「パパはすごい人だけど、私に暴力を振るう」。