手元に開かれた小さな窓は、世界と繋がっている。
しかし、そこからみえる景色に目と心を奪われて、それ自体は小さな窓に過ぎないということを忘れてしまってはいないだろうか。

携帯を開くことが他人の生活をのぞくことになるなんて、すこし前までは予想もしなかったことだが、ここ数年ですっかり当たり前になってしまった。
私は今年成人したが、たいしてワクワクもしないで式を迎え、感動もあまりないまま同窓会まで終わってしまった。なぜなら、みんなが今なにをしているかどんな姿か、おおかた予想がついていたからだ。
「最近の子はさぁ、あの子どんなふうになっているだろう~とか思わないんだろうねぇ」
「ほんとうですよー、ときめきなんてないですよね」
美容師さんと冗談のようなテンションで交わした会話の通りになってしまって、いささかガッカリした。

視界にチラつく他人の生活

同級生がツイッターで有名人になっていたり、アイドルになっていたり、結婚したり、毎日飲み歩いていたり。
SNSは人生の切り取りだから、ひとにみせたいところが集まっているのは当然なのに、どうしてもたのしそうな他人に嫉妬してしまう。私もカードを切らなくてはと焦燥感に駆られては、そんな自分に嫌気がさす。
SNSを有効活用してビジネスをしている、もしくは純粋にたのしんでいるひとも一部にはいるけれど、そうでなければ、SNSはない方が良いものなのかもしれないと思う。
めったなことでもなければもう会うことのないひとがどこでなにをしているかなんて、ほんとうはまったく気にする必要のないことなのに、SNSがあるゆえに気にしてしまうなんて、心の健康に悪い。

それから、誰でも小さな液晶のなかで旅行がシミュレーションできる時代になった。
ハッシュタグは便利だ。知りたいことを井桁のあとに打ちこむだけで写真と情報がたくさんヒットする。だから今時の女子は、行ったことのない場所についても詳しく知っているのだ。
色々と調べてから実際に現地へ行って、予習した個所をさらって回り「やっぱりきれいだねー」なんて言って、予習教材と同じ写真を撮ってSNSにアップする。
私もそういうことに夢中になっていた時期があったけれど、振り返ってみるとなんだかバカらしいなぁと思う。

道に迷ったり、寄り道したり。 “無駄”をたのしむ“ゆとり”も良い

昨日、近所の公園へ1人でお花見に行った。
地元の桜なんて誰もアップしていないので、咲き具合も人出もわからないままにスニーカーを突っかけた。おとといに季節外れの雪が降ったことを思いだし、もしかしたら花が落ちてしまっているかもしれない、なんてハラハラしながら。
近くにはカフェもパン屋もないから、コンビニでコーヒーとシュークリームを買った。ぶら下げているのはたった200円のしあわせだけで、情報も他の持ち物もなにもない。
でも、私はとても良い気分だった。

色々調べ、念入りに準備したうえでその場所を訪れること。それはたしかに有意義で効率的だろう。
でも、道に迷ったり寄り道したり、 “無駄”と嫌われるようなこともたのしめる“ゆとり”というものもまた、あって良いのではないかと思う。
効率や意味ももちろん大切だけれど、そうでないことが排除されてしまう世界は、なんだかこわい。

窓から見える景色に魅了され、大切なリアルがむしばまれないように

もっと“知らないしあわせ”を大切にしたいと思う。

充電さえあれば、それは様々な景色と情報をもたらしてくれるだろう。しかし、小さな窓に過ぎないそれ――SNS――が奪うものもまた、存在するのだ。
SNSはあくまで窓だ。
そこからみえる景色に魅了され、大切なリアルがむしばまれないように……携帯を置き、SNSと自分との適切な距離を見直して、ほんとうに手のひらにあるしあわせを大切にしたい。