にいつかめぐみさんの「セクハラオヤジに突き付けた「NO」。その先に見えた私の生き方」のエッセイは、社会に出てから、性的な視線にさらされ、「セクハラ」というには、軽すぎる性暴力を受けた経験が綴られている。その中で、目に留まったのは、この一文だ。

自分のことも大事にできないうちは、他人のことも大事にできない

にいつかさんは、「NO」と言えない自分を考察する中で、働く目的が仕事のストレスから逃げるための酒代を稼ぐことになってしまったのは、他人にすべてを委ね、自分を犠牲にしてきた結果ではと気づく。そして、自分への不満を解消するために、女性という自分よりも弱いと思い込んでいる立場の人を蔑むセクハラ男のようには、絶対になりたくないと、決意を綴っている。

私が昨年、勤務地の福岡で取材していたフラワーデモ。呼びかけ人の臨床心理士の女性はいつも、「#WithMyself」と書いたプラカードを掲げていた。#MeToo、#WithYouと性暴力の被害者に「あなたはひとりじゃない」と寄り添うのと同じように、「まずは自分に寄り添って、あなた自身を大切にしてあげてほしい」そんな思いを込めていると聞いた。臨床心理士として様々な人の話に耳を傾けてきた経験に裏付けられた言葉だと感じた。

自分を大事にし、自分で自分を満たしてあげる必要があるという気づき

日本では、「人に優しく、自分に厳しく」が美徳とされてきた。

一時期、自分の中にある「もっと挑戦したい」「限界を自分で決めたくない」というハングリーさを、自分の頭の中の何者かが「できるわけない」「調子に乗っている」と指摘し、モチベーションを削がれるということに悩み、「アダルトチルドレン」や「自己肯定感」といったテーマの本を片端から読んでいた。

本を読み、私の中のストッパーは、都会育ちの両親が、長野県の山間部で私を育てるにあたり、井の中の蛙にならないよう声をかけていた反動だと気づいた。また、それらの本の中で腑に落ちた考え方に「他人に腹が立つのは、自分が何かを我慢しているときで、自分が我慢していることをその人がやっているのがうらやましいから」という指摘がある。自分に厳しくばかりしていたら、同じように我慢せずのびのびやっている他人をとがめたくなる。人に優しくなるためには、まず自分を大事にし、自分で自分を満たしてあげる必要があるというのは、にいつかさんの気づきとつながると思う。

そして、我慢を続けていれば、その鬱憤は自分より弱い立場の他人に向かう。会社や部活でハラスメントの連鎖が起きるのは、そのためだ。いま、このときから自分の体と自分の感覚(快、不快)を尊重し、自分のために声をあげることが、社会に連綿と残るハラスメントの連鎖を断ち切ることだと思う。

「女」の枠にはめられたくないのに、いつまでも「女」でいたい

もう一つ、印象に残ったエッセイを紹介したい。ミドリさんの「社会人なら『セクハラ』という犯罪。大学生なら『イジリ』になるの?」というエッセイだ。

「男性から性的な目線にさらされるのは嫌だけど、性的に価値がないとは思われたくない。そんな私はワガママなのでしょうか。」

この一文を読み、胸をえぐられるような、隠していたものを見つけられた時の恥ずかしさのような、とても居心地の悪い気持ちになった。身に覚えのある葛藤だからだ。現在の私もまだ時折、その葛藤の渦中に引き戻される。「女」の枠にはめられたくないのに、いつまでも「女」でいたい。揺れる30歳。

大学入学後に感じた違和感をミドリさんは、こう綴る。

私は大学に入学してから、大学生ってこんなに「女」ってコンテンツとして搾取されるものなの?と日々感じていた。 社会人になればセクハラは犯罪として扱われますが、大学生は「これはネタだから」「ノリが一番大事」みたいな感じでスルーしろみたいな。というかスルーすることが当たり前というか。そんな雰囲気にすごい違和感をおぼえます。え、おかしくない?私達がそれでお金をもらう職業を選択しているならまだしも、何の権利があって男子達は私達を性的に消費することが許されているの???

私の場合は、違和感に気づいたのは、社会人になってから。社内に露骨なセクハラはなかったが、取材先との懇親会ではたびたび、「若い女の子」の枠にはめて話をする男性幹部と遭遇した。「若い女の子」らしい振る舞いをし、甘んじてその役割を受け入れた方が、その場は丸く収まる。でも、もやもやとしたものが胸に残る。

「若い女の子」だから許されていること、丸くおさめられる場というものがあるのなら、年齢を重ねた私はどうなってしまうのだろう……。私は「若い女の子」じゃないと価値はないという「呪い」にかかっていた。

推定還暦超えのY子さん「今が一番楽しい」。その言葉が呪いを解いた

年齢のことを考える時に思い出すのは、初任地の大分で行きつけにしていた定食カフェのママ、Y子さんのこと。推定還暦超えのY子さんのもとには、新鮮な肉や野菜がてんこ盛りのおいしい定食を求め、全国転勤で一人暮らしの若者らをはじめ常連客が集まった。Y子さんは、常連客の誰かの誕生日だったある日、言った。「女の30代は楽しいよ。40代はもっと楽しい。そして私は今が一番楽しい」。そのときの笑顔が今も目に浮かぶ。

20代から自分の店を持っていたY子さんは、自分基準の軸がしっかりある女性だ。常連客が帰省や出張でお土産を買ってきても、自分の好みじゃない場合は、「ありがとう。私はあんまりこういうのは食べないから、みんなで分けさせてもらうわね」とトゲはないが、きっちり宣言する。初めてそのやりとりを見たときは、とても驚いた。もらったものは、自分の好みに関わらず喜ばなければならないものと思っていたから。若い頃、他の客に迷惑をかけたり、店に無理難題をふっかけたりする酔客を、「お代はけっこうですので、どうぞお帰りください」と笑顔で追い返したという武勇伝もある。

そんなY子さんの「今が一番楽しい」は、他人にどう思われるかより、自分の感覚を大切にしてきた先にある未来だろう。Y子さんの笑顔は、年を重ねることに対しマイナスな印象を否定できずにいた私の中の「呪い」を吹き飛ばしてくれた。

さらにY子さんは、「自分の本音を大事にして、自分を満たす方法を知っていると、私を喜ばせたいと思っている人が、自分と同じように私を大事にしてくれる」という気づきをくれた。例えば、Y子さんが、「あんこが好きなの」と言えば、次は土産物売り場であんこのお菓子を探してしまうように。

「若い女の子」を演じる必要はない。そんなのつまらない。

自分を大事にすることは、他人を大事にすることにも、自分が大切にされることにもつながる一石二鳥。「男性からの目線」を感じ期待に応えて「若い女の子」を演じる必要なんかない。その場は丸く収まっているように見えるかもしれないけど、それは自分をすりへらすだけ。そんなのつまらない。

男性目線に自分の価値を委ねず、自分を自分で大事にすることが、男性中心社会を変えた先にある生きやすい社会への道だと思う。

◆読んだひと 安部志帆子

2015年に毎日新聞に入社。大分市、福岡県久留米市で記者を経て、東京本社の情報編成総センター(いわゆる整理部)所属。久留米支局時代に、フラワーデモのきっかけのひとつになった、準強姦事件の無罪判決を取材した。長野県出身。 Twitter:@mai_shihoko