大好きな人がいる。
 私が中学生の頃に出会った、年の近い女の子。賢くて、大人びていて、どんなことにも真面目で本気なところに惹かれた。
 もう8年ほど前のことになるが、今までずっとその気持ちは変わっていない。彼女の誕生日に合わせてささやかなケーキを買ったり、彼女に会いに行くために初めて一人旅をしたり、レストランで彼女の好物を見つけて注文したり。年月相応にたくさんの思い出ができた。
 それでも彼女からのリアクションが返ってくることはない。
 二次元キャラクターの彼女はゲーム画面から出てこないし、年を取ることもない。私が中学、高校、大学を卒業して社会人になった今も、あどけない表情をたたえる少女のままだ。

フェミニズムを知れば知るほど、自分の暴力性と戦うようになった

 一人で年を重ねた私は、私なりに多くを知り、考えるようになった。この社会が不均衡に作られていること、その中で社会的弱者が置かれた立場のこと、女性に投げかけられる視線のこと、とりわけ主体性を持たない相手に対するそれがいかに暴力的であるかということも。そして、この社会の歪みに加担したくないと思うようになった。
 一方で自身を振り返れば、気持ち悪いほどに“オタク”だ。美少女やら美少年やらが大量に登場するコンテンツを愛好し、性的な冗談が飛び交うSNSのタイムラインにどっぷり浸かっては「いいね」を飛ばす。
 内面化された無遠慮な視線を、無意識のうちに飛ばしてしまう。後になってその視線の暴力性に気づき、内省して奥底に沈める。こんなことを何回も繰り返した。

 冒頭の彼女に対する私の一方的な感情をたたえた視線が、露骨に性的ではないにしろ暴力的なのではと考えるようになったのは、最近の事だ。
 最初こそ同年代で、等身大な姿に魅力を感じていたものの、今では随分と年の差が開いた。彼女をかわいいと思う気持ちの要因に「幼さ」が全くないと言えば嘘になる。そのことに思い当って以降、しこりのような罪悪感が頭の片隅に居座るようになった。そして、自分が彼女をまなざしていることに努めて自覚的であろうとしている。
 価値観と好みに一貫性のないまま、私は今も宙ぶらりんでゲームをし、SNSを覗く。フェミニズムを揶揄する投稿をシェアする人を見かけたら、反駁する投稿をそっとシェアする。キャラクターと言えど他人を消費していながら、潔白でいるための免罪符を欲しているのだ。

誰かの尊厳を奪う表現は、いくら二次元でも許されない

 フェミニズムとオタク文化は相容れないものだと捉えられている節がある。誰かの尊厳を踏みつけずとも趣味に興じることはできると個人的には断言したいが、双方共に受け入れがたい人の気持ちもわからなくはない。ここ数年、二次元女性の表象をめぐるネット上の炎上事例は枚挙に暇がない。
 服装の描き方がおかしい、性別によって役割が固定化されている、そういったものを公共性の高い目的をもって不特定多数の前に掲示すべきではない。“アニメ絵”であろうと写真であろうと同じ事である。こうした主張に私は賛同している。
 同時に、推しキャラクターが突然非難の対象になった人たちの心情にも思いを馳せてしまう。好きなものが否定されているように感じるのは悲しいことだ。怒りも湧くかもしれない。例えその非難が正当なものであったとしても、だ。
 とはいえ、尊厳を損なわれる人、息苦しさを感じる人は減らしていくべきだ。だから私はフェミニストでありたい。

いつか彼女が炎上したら、「彼女を好きな自分」は葬るしかないだろう

 それでもオタクとしての私は、遠くで火柱が立っているのを見るたびにうすら寒くなる。大好きな彼女も、いつかふとしたきっかけで矢面に立ちうるのではないか。杞憂であってほしいが、腹の底が冷える。そして考える。
「これから先、もし彼女についてのイラストや企画が炎上することがあったら、私はこれまでのように彼女にプラスの感情を向け続けられるのだろうか」
 これは問題の本質ではない。たびたび議論の俎上に載せられるのは表象の問題であり、人間をどう切り取って描くかという問題である。個々のキャラクターの問題ではないし、そうであってはいけない。理解している。
 それでも割り切ることはできないだろうとも思う。暴力性を孕んでいると知りながらなお、二次元のキャラクターである彼女に感情を向けるのは、そこに確かに人格を見たからだ。だからこそより罪深いとも言えるが。
 その時が来たら、フェミニストであろうとする私は、“ロリキャラが好きな気持ち悪い私”を葬り去ることしかできない。幼い彼女を消費して作り上げたたくさんの思い出と、大好きの気持ちと一緒に、重りをつけて深い海に投げ込むのだ。