一人でいるのに寂しくない。人との繋がりを感じるSNSを閲覧していると、自分がちっぽけで寂しい人間だと思えてくる。どうして、そう思うのかと問われると、自分でもよくわからない。

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寂しい夜を、ひとりで超えるのは慣れたことだ。身内が亡くなった夜、思うようにいかなかった日の夜、ひとり泣き崩れる。そうやって過ごす時間も、決して悪くないと私は思っている。心を成長させる時間を与えてもらったのだと思って、ゆっくり、じっくりと自分と向き合ってみる。そうすると、寂しいという感情を忘れているのだ。

しかし人間はひとりでは生きていけない。たまには人の温もりが欲しいと思うこともある。それも毎日、べったりではなく、長い人生のなかで一瞬光っているくらいの、時間で。そうしたら、人の温もりが、寂しさを思い出させてくれるのかもしれない。私って寂しかったんだなあ、と思い起こさせてくれる人がいるって、素晴らしいことだと思う。人生の勝ち組というと、軽くなってしまうけれど、人生を豊かに、心のバランスを保たせてくれるはず。

そして、あの日のトラウマがフラッシュバックしてしまう、ということは、私にとって常に襲い掛かっていることだ。そんなときに、支えになってくれる人がいてくれたらいいのに、と私はいつも思う。そのときだけ、どうしても寂しさを隠せない。寂しい、寂しい、と心のどこかが泣いているのだ。いや、泣かずにはいられないのだ。もう、どうして側にいてくれないのよ、と嘆きたいくらい寂しいときは、SNSで人の繋がりに触れているのが寂しいと思う私にだって、訪れる。

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フラッシュバック。過去のトラウマが少ないわけではないからこそ、私にとって身近に感じるのだ。人生って幸せしかない、と感じる日よりも、ああ、もう本当に情けないなあ、生きている価値あるのかなあ、とぼやきたくなる日の方が多い。

それを幸せ満帆の人生とは程遠いからこそ、寂しいをエネルギーに私は生きてきたのだ。そう、寂しいをエネルギーにいきるというのは、私にとっての寂しさとの向き合い方そのものと言えるかもしれない。

心の奥で芽生えた寂しさを人生の栄養として育てて、それを上手くエネルギーとして活用していく。それこそが私にとっての幸せな生き方であって、寂しさを味方にする方法なのだといえる。人の温もりを感じて生きるというより、寂しいと思う時間をひとり向き合い、じっくりとエネルギーに変えられるまで育てていく。それが自分のなかで寂しいよりも、心地よいと思えたとき、初めて、寂しさと向き合えるのかもしれない。

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寂しい夜を感じたことがない、と言える人はこの世にどれだけ存在するのだろう。まったく寂しくない、いつも幸せなんだ、人生充実しきっている。そう断言できる人のほうが少ないのではないか。だから、人の温もりが恋しくなる。ときに人間は恋をし、心の根底に眠っている寂しさを消し去ろうとする。もしくは、上書きを繰り返しながらごまかそうとする。その行為こそが、人間らしいとも感じられることは確かだ。

人とのふれあいが寂しさを忘れさせてくれる一方で、ひとり寂しい夜を過ごし、エネルギーを蓄えることだって、時には必要だということを、私は最近になって考えるようになった。そもそも寂しさって生まれたての頃は知るはずもなかったのに、生きている時間が長いほど、人の温もりに頼りたくなるほど寂しいときが来ることを知る。

生まれたての身体と心に傷を刻んでいくともいえる、寂しさ。しかし、自分で寂しさという傷を治すことができたなら、誰かの寂しさをエネルギーに変えるお手伝いが、できるのではないか。

 寂しさを、希望に。それが今の私にできる、寂しさとの向き合い方なのだ。