自分の名字について考える事なんて、学生だった頃にはまったくと言ってよいほど考えられなかった。私はもちろん私の家族も、物心ついた時からおなじこの名字だったし、自分の意志の有無にかかわらず、変わる事なんてそうそうある事ではなかったのだから。

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たまに、変わるクラスメイトいたけど、なんとなく触れてはいけない話題で、ひいては考えないように避けた話題だったように思う。仲が良ければ字なんてなんとなくのの響きとして知っては知ってはいても、日々の生活の中では滅多に使わない。そのせいで、学生の時は友達としての関係を表現するための一大イベントだった、お互いの年賀状の宛先には1字ずつまとまりのない漢字が並んでいた。

最初に、字について意識したの中学からの親友とも呼べる友達が結婚した時だ。高校や大学が変わっても、変わらずに年に何回かイベントごとに会う約束する仲だったその子とはなんとなく止めるきっかけがないまま、年賀状のやり取りを続けていた。たくさん送ってたくさん貰うことが一つのステータスだった学生の時とは違う。

スタンプやメッセージを丁寧に書いた年賀状のやり取りは、それぞれの予定がありなかなか会う機会がなくなった関係では、「忘れてないですよ、また会いたいですね」を伝える大切なやり取りだった。大切なやり取りだったはずなのに、友達の結婚したその年の年賀所に相手から届いた年賀状は、字の変わったまるで知らない人から届いたようだった。差出人の違う年賀状は、その例年ほとんど変わらないはずのメッセージでさえ、前年とは違うもののように感じられた。

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私自身の名字は、特別珍しいものでもないし、難しい漢字を使っているわけでも話のネタになるようなものでもない。ほとんどの人がそうであるように、あまり親しくない人の呼び名に使われるくらいしか登場する機会のないものだ。たかが名字だと思っていた。私にとっては、結婚した友達も旧姓の方がしっくりくるし、この先もその感覚が変わることはないと思う。でも、相手にとっては違うのだ。私がおいて行かれるわけも、記憶がなくなるわけでもないのに、いつか旧姓よりも結婚相手も名字がなじむようになり、旧姓で過ごした時間よりも長くなる。

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それを寂しいと感じてしまうのは、私がまだ学生の時のような関係や時間を続けたい子供だからなのかもしれない。未来では私も字が変わるかもしれないし、どうしたって学生だった時のように毎日会うことも遊ぶこともないのだ。知らないような名前からの年賀状だって関係は変わらないし、会う頻度も減ったりしない。男女平等とか夫婦別姓とか、それぞれの意見を表す手段として社会的にはいろんな意見があるけど、そんな大きな話題ではなくて、自分とか友達のことを思うと、違う人みたいとか・寂しいとかそんな視点で見ると、私は私のままでいられたらと願ってしまう。