2023年7月4日8時23分、関東地方某市役所、1階、市民受付前。
申請用紙の記名欄で、ボールペンを持つ手がふと、止まった。
……私の「名前」って、何?

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結婚に際して、自らの名字を変えることは、どうしようもないことだと思った。
今の法律では、夫婦になるためには、ふたりのどちらか一方の姓を共に名乗らなければならない。
職業柄、夫の名字が変わるのは、私のそれが変わることよりもデメリットが多い。さらに、私の夫はひとりっ子で、私は3人きょうだい。
それでも、夫は私が生まれ持ったフルネームを気に入っているのを知っていたから、通称はそれで、戸籍上は私が名字を夫のものにするとして、婚姻届を提出した。
名字が変わることへの寂しさはあったし、選択的夫婦別姓が導入されたら戻したいと思いながらも、「まぁ、通称はそのままで行くし」と、あまり深刻には考えていなかった。

そんなある日、とある市役所にて。
市役所に異動届を提出するため、私は受付前でボールペンを握っていた。
A4横書きの、何の変哲もない申請用紙。一番上の名前の記入欄で、手が止まった。
……私の「名前」って、何?

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ことの起こりはこうだ。
私たちは、結婚式を挙げてから婚姻届を提出し、同時に引っ越しも行うというパターンで結婚した。
結婚式は週末だったので、婚姻届の提出は閉庁日になった。そのため、婚姻届と異動届を同時に提出できず、異動届を開庁日に改めて提出しに来たのが、先の場面である。
既に婚姻届は受理されているので、私の戸籍上の名前は新姓となっている。が、異動前の住所には旧姓で名前が登録されているため、「異動前の氏名」は旧姓、「異動後の氏名」は新姓、そして、先ほど手が止まってしまった「申請者の氏名」はどっち……? となったのだ。

こうして書き出してみると、婚姻届が受理されているのだから新姓が正解なのではと思う。しかし、当時の私はパニックに陥った。

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生まれてかれこれ30年、記名欄に何と書けば良いのか、わからなくて手が止まったことはない。自分の名前が変わることも、ましてや、自分の名前がわからなくなることなんて、想像もしたことがなかった。

私の名前って何? 私って誰なの? と、なぜか目に涙が浮かぶ。引っ越した直後で、若干ホームシックになっていたのもあったかもしれない。

それでも、「お名前は?」という誰でも答えられるはずの問いに、なんと答えれば良いのかわからないというショックは、とてつもないものだった。

さらに、運転免許証に旧姓を併記するため、住民票の旧姓併記を同時に依頼しようとしたところ、私の旧姓がそれであることを証明するために、婚姻届受理後の新たな戸籍謄本を取得しなければならないらしい。
運転免許証にも、市役所が発行した婚姻届受理証明書にも私の旧姓は記載されているのに、それらでは私の旧姓が本当に「旧氏」であることの証明にはならない、と言われ、悲しみと怒りが同時に湧いてくる。
いや、婚姻届受理証明書って、あなたたちが出した書類ですよね? なんでこれ使えないの??

ちなみに、先の異動届は、担当の方も正解がわからず、複数人に確認してもらった。結局どっちを書いたのか、今となっては思い出せない。

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……と、様々あったが、無事に面倒な手続きをクリアして、私の住民票にも運転免許証にも、旧姓がちゃんと併記されている。通称は旧姓でと思っていたが、転職先は戸籍名と業務名を一致させる必要があったので、新姓で呼ばれること・新姓で名前を書くことにも、ずいぶん慣れた。

それでも、私は生まれ持ったフルネームこそが、自分の名前だと思い続けている。
どんなに好きな人と一緒にいたくても、30年間名乗り続けてきた私の名前は、そう簡単には変えられない。全国名字ランキングの上位入りする名字であっても、やっぱり私はそういう名前で生まれてきたと思っているし、誰が何と呼ぼうと、私が「私の名前」をそうだと思うのは、私の勝手だ。

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そんなことを思いながら、親として名前をつけた、愛おしい娘のことを思う。
夫とふたり、頭を悩ませ、名字とのバランスも一生懸命考えながら付けた名前。
娘が生まれ持ったフルネームにこだわるのか、それとも新たな名字を喜んで受け入れるのか、それはまだわからない。けれど、もしこの子が誰かと一緒にいたいと願った時には、どうか彼女の好きなように「名前」を決められますように。
そう願いながら、あどけない寝顔をそっと撫でた。