真剣さへのコンプレックス。人生のほとんどを夢のために捧げていても

うまれて初めて抱いた夢と、今追いかけている夢が同じだ。紆余曲折はあれど、幼稚園児のときに憧れた職業に就こうとしている。だから、幼稚園の卒業アルバムも、小学校の卒業文集も、大学受験のときに提出した願書も、大枠は同じようなことが書かれている。ひとに話すとよく驚かれ、羨ましがられる。でも、本当に羨ましがられるようなことなんだろうか。夢を持たない生き方を知らないことが、時々ひどく怖くなる。
考えれば、夢がなければわたしはもっと怠惰で何にも一生懸命になれず、夢を持っている人たちを眩しく眺めているだけだっただろう。人生を真剣にやりたい、という漠然としているようで強烈な願望が、年を重ねるごとに強くなっている。
夢を持つというのは、無限に体力が湧いてくる魔法にかけられるようなことだ。わたしは運の良いことに、夢を語れば都合よくレールが敷かれた道が現れ、少し辿ってみれば手を引いてくれる人と巡り合い、引いてもらった先で夢につながる景色を見ることができた。
選択を迷う間も無く、誰かが示してくれた道筋に導かれるまま歩いていくと、気づけばわたしの人生は、周りの環境やひとによって形作られていた。余裕が無くなるような経験とはほぼ無縁で、のらりくらりと上手くすり抜けてきたように映っているだろう。そのことが真剣さへのコンプレックスになっている。良くも悪くも自分の人生に向き合った経験が少なく、気が付けば同年代よりずっと幼い精神が意固地に夢を追っている。
好きなアイドルが今のわたしとほとんど変わらない年齢の頃、「正しいかどうかは別として、必死さは必ず何かをうむ」と語っていた。その頃の彼はたしかに必死でがむしゃらで、あまり余裕が無さそうで危うくて、でもその姿がたまらなく魅力的だった。わたしがそういう光り方をすることはないんだろうな、と思うと憧れと諦めが混ぜこぜになっておかしくなりそうになる。
起きている時間のほとんどを夢のために捧げる日々でも、わたしはきっとどこかで必死じゃない。それはきっと、夢の枝葉は揺れ続けて、迷い続けているからだと思う。
幼い頃のわたしは、わたしの努力次第ですべてがうまくいくと思っていた。他のひとの人生に深く関わり、ともすればその人生のゲームチェンジャーになれる職業だと思って憧れ、夢を持った。今のわたしは誰かのゲームチェンジャーになれるなんて思っていない。今のわたしの夢を端的に表すのなら、誰かのマイナスをゼロに戻し、あわよくばその先のプラスに手が届くように。そんなふうに、誰かの歩みに静かに伴走するような仕事だ。
必死になり切るには曖昧な輪郭で、すぐに枝葉の揺らぐ夢を、わたしはこれからも追うことになるだろう。その頼りなさを隣に丸めこんで目の前の人の人生に伴走できるように向き合うのが、わたしの夢の持ち方なのかもしれない。
いつか、こうして持ち方にすら悩んだ夢が、具体的な景色として目の前に立ち上がってきたら、きっとこっそり泣いてしまうと思う。
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