戻れない過去を想うのは無駄なことだろうか

 

受け入れられない過去がある。

 

たとえば、失恋。

たとえば、失敗。

たとえば、大切な人との別離。

たとえば、過去に受けた理不尽な暴力。

 

過去について思い悩み、現在に身を置きながら過去を生きるのは無駄なことのように思える。いつまでも別れた恋人を想ってウジウジしている人を見ると、今更どうにもできないのにとイライラするし、そんなことは本人が誰よりもわかっていることだろう。

たとえば、私は過去を引きずりがちな人間だ。

というよりも、思い出さずにはいられない。

 

過去に起きた「出来事」自体はほとんど忘れてしまうのに、恥ずかしい想いやつらい体験は身体がしっかり覚えている。

 

同じ季節、同じ場所、同じ時間、同じ温度、同じ服、同じ音……

風景に埋まっている地雷を踏むと、身体に埋め込まれた記憶が呼応して爆撃される。

 

喉はひっくり返して掻きむしりたくなるほど熱くなり、掴んだ髪の毛をすべて抜いてしまいたい衝動に駆られる。それはちょうど降ってきた過去が私に取り憑くようで、そうなると私はもう私ではない。

 

そういう人間に対して、「過去は変えられないのだから、すべて忘れて未来を向いて歩こう」などと明るい言葉をかけるのはもっともなようで、もっともだからこそ残酷だ。

 

こんなにも苦しい想いが無意味だと言われても、気持ちの折り合いが付けられない。過去をそっくり忘れてしまうことで何か大切なものを捨象してはいるのではないかという気持ちが拭えない。

 

それは、未練がましい人間の願望に過ぎないのかもしれない。

でも、本当に、戻れない過去を想うのは無駄なことでしかないのだろうか。

 

過去の自分が「他人」になっても

 

過去は変えられない。

だからこそ、早々に忘れて未来を向くべきだ、という考えは正しい。

 

しかし、過去を自分から切り離して「他人」にできたとしても、過去は姿を変えてあなたの前に立ち現れる。

たとえば、今の私は、1年前の私とは全然違う。

1年前の私は、誰かに認められたり好かれたりすることで、自分の存在意義を確かめているような人間だった。他人からのやさしさを受け取らずして生きていける人間などいないけれど、私の場合は他人からの評価がすべてだった。

 

他人からの「好き」や「理解」を集めるためなら、何でもした。それがなくては生きていけないのだから。

 

他人をよく観察し、その人が喜んでくれそうなことや安心する言葉を、ストラックアウトのように適切な場所に投げ入れる。板をうまく射抜ければ、やさしくしてもらえる。好いてもらえる。嘘は言っていない。けれど、好意ややさしさ欲しさにいろいろなものを譲ってきた部分は少なからずあった。そして、そういう、商取引のような関係に安心感を覚えていた。

 

けれど、そうして多少の無理を重ねながら、他者に際限なく阿り(おもねり)続けても、最終的には粗雑に扱われ、「使い捨て」られることたびたびだった。しかし、自分の存在意義を確かめるために他人を利用しておきながら、「使い捨てられた」などと糾弾して良いものだろうか。自分で自分の判断軸を持たずに、相手に全権を勝手に委ねていたくせに「捨てられる」のは嫌だったのである。あるいは、「これだけ尽くしたのだからまさかそんなことはされないだろう」という驕り? いずれにしても傲慢だ。弱いくせに、考えなしのくせに、他人にぶら下がっていただけのでくの棒のくせに傲慢だ。相手を憎んで刃を突き付けようとするほど、先端は翻って私の喉を割いた。死ね。死んでしまえ。

 

「人を呪わば、穴ふたつ」とよく言うが、過去への執着や復讐心も同じことだ。過去への執着は意味がない。私は一旦、過去と縁を切って未来を積み立てることにした。過去を反面教師にして、許せない自分の穴を埋めるように、ひとりでも立てる練習をした。

 

他人からの好きややさしさを闇雲に集めなくてもいいように、人にできるだけ会わず、本を読み、文章を書いて、礎をつくった。そうして少しずつ、自分の軸で物事を考えられるようになり、他人の助言を得なくても自分のことを自分で決められるようになってきた。私はすっかり、過去と決別できたと思っていた。けれど、過去を無視して未来を積み重ねるだけでは不十分だった。

 

人と会って話せるくらいまでには回復したとき、人との関係に違和感を覚え始めた。それまでは主に好きの受け渡しで成り立っていた関係を不自然に思うようになった。そればかりか、「あなたを理解している」「あなたが大切」と言われるたびに、その言葉と引き換えに私からやさしさをもぎ取ろうとしているんじゃないかとさえ感じた。もちろんそんなわけはないのだけれど、「理解されること」や「大切にされること」に重きを置いている相手であればあるほど、言葉を選ばずに言えば、軽蔑に近い嫌悪感が湧いてきた。

 

私は困惑した。どうして他人の善意を素直に受け取ることができないのだろう。顔を上げると、目の前の人は笑ってくれている。よかった。ホッとした気持ちで会話を続けようとすると、視界のずっと奥でこちらを睨んで泣いている人がいる。その顔を見て、私はハッとした。

 

それは、他人からの「好き」や「理解」を集めるためなら何でもした、かつての私だった。

 

過去と仲直りしてはじめて、未来に向かって進める

 

過去を軽蔑し切り離すことは、過去を「他人」とすることだ。そして、「他人」である過去の自分と仲直りできないということは、自分以外の他人を許せないことにもなる。

 

私は過去に執着するのをやめたつもりだった。しかし、過去と自分を切り離すことに必死で過去を強く軽蔑していた。結局は過去を呪っていたのである。

 

過去に執着や復讐をしてはいけない。それは過去という地点の地縛霊になることだ。想いが強い場所に骨を埋めるのも悪くはないかもしれないが、それは未来に向かうことにはならない。

 

未来に向かうことを考えるなら、過去と対峙し、ときに殴り合ってでも、最後は仲直りしなくてはいけない。無視するのも方法のひとつだけれど、いつかきっと、彼らは何度でも化けて出る。忘却という魔法で身を守れないタイプの人間は、彼らが化けて出たときの呪文を覚えるか、いっそ握手をして成仏してもらうしかない。

 

現存する他人であれば、縁を切っていけば、あるいは適当に表層の付き合いだけを続けていけばいいのかもしれない。

けれど、自分の歩いた軌跡を否定するかたちでしか、あるいは嘘をつくことによってしか、現在を肯定できない人生が幸福だといえるだろうか。

 

私は過去を切り離せた。

しかし、広義の意味ではまだ、過去のただなかにいる。

 

私は過去と仲直りしたい。いつも視界の端で泣いている、「好き」や「理解」を集めるためなら何でもした私を抱きしめて「頑張ったね。でも、もうそんな場所にい続けなくていいんだよ」と伝えてあげたいのだ。

illustration :Ikeda Akuri

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