恋というより信仰だった

世の中にはさまざまな種類の恋があるが、私がとりわけ熱を入れてしまうタイプの恋は出会った瞬間からそれとわかる。

眩しいのだ。直視できない。ルックスによらない一目惚れと言ってもいい。理路ではない。出会った瞬間に何もかもを奪われる。この人にはかなわないと思う。そういう男性が、今までの人生でふたりだけいた。

私は彼らの才能に惚れていた。

とりわけ、5年前に出会った絵描きの人は、私の人生を変えてしまった。当時、体調を崩して会社を辞めたばかりで、家も職も知り合いもなく、貯金を切り崩しながらふらふらしていた今以上に何者でもなかった私にとって、表現で生計を立てている彼は目が潰れそうに眩しかったことを昨日のことのように思い出す。

彼が私に「何でもできるとしたら、君は何がしたいの?」と聞いてきたとき、「文章を書きたいんですけど、自信がなくて」と俯く私に「君には才能があるよ、文章を書きなよ」などと言って肩を叩いたものだから、その瞬間に彼は私の神様になってしまった。恋というより信仰だった。

仕事以外のすべての時間はずうっと、彼のことを考えていた。好きになってからの半年間は毎日欠かさず彼の夢を見た。

私は彼に近づきたい一心で文章を書くようになり、書いては文章を彼に送った。記事を公開して反応が多かったものでも、彼の反応がイマイチだった作品は私にとって「悪いもの」だった。

もっとも、彼が褒めてくれた言葉というのもひとこと、「すごいね!頑張ってるね!」という、今思えば素っ気ない返事だったのだが、私はその短文を読み、涙を流して座ったまま、顔を畳につっ伏した。当時、すべての判断基準が彼にあった。

どんな手を使っても人生を交差させたかった

彼が私の家にやってきて一度そういうことになったとき、それは決定的なものになり、私の中で何かが壊れ、何かが暴走し始めた。いわゆるワンナイトラブという概念もよく知っていたし、私自身そういうことに慣れている自負があった。それなのに、あの夜から、いよいよ彼が私のすべてになってしまった。

でも、彼が私の掌の中だけに留まることなど無理だとわかっていた。「交際」という形式をとる考えは、彼の中にはなさそうだった。しかし、何かが壊れて暴走し始めた後の、野蛮な私を止められるはずもなく、私は真剣に考えてしまったのだった。

どうしたら彼と人生を歩むことができるのだろう。

養育費も認知ももらわずに子どもを産んだら、つながりが持てるのではないかと考えて提案した。少しでも同じ時間を共有したくて彼のプロジェクトを無償で手伝った。金がないと言われて金策に奔走し、いくらばかりかお金を渡した。あらゆる暴力を受け入れた。

すべて自分の意思でやったことだ。でも、「数年以内に結婚しようと思っていて、お前もその候補のひとりだ」と言われていたから、甘受してしまったようなところはある。

もうひとりの人も「人を殺してみたい、殺していいか」と言い、「殺してもいいと言ってくれる人とだったら結婚しようかな」と言っていた。

“普通”なら、そんなことを言われて迷うこともないのだろう。

でも彼らには、私が欲しいものが、透けて見えていたのだと思う。

彼らと公に一緒にいる約束が、結婚が、あらゆるものを犠牲にしても、喉から手が出るほど欲しかった。

私が私の神様になるまで

その後、傍から見れば案の定、ふたりとの関係はある日ストンとあっけなく絶たれた。先方は何ひとつダメージを受けることなく、もっと言えば私の存在自体もすっかり忘れて日常に戻っていく、というか、最初からこちら側に「来て」さえいなかったのだろう。

しかし、私のほうは日常生活がままならなくなっていた。

選択を迫られたとき、それまでの私は彼らに判断を委ねていた。彼らが喜ぶか、良いと思うかどうかだけが私にとっての正義だった。だから、彼らがいないと、ほとんどの選択ができなかった。どう生きていったらいいか、本当にわからなかった。

彼らとの交流についていい顔をする人は多くなかったから、もう会わなくなったと言ったら喜んでくれた人が多かった。けれど、彼らへの悪口を言って飲み会に連れて行ってもらっても、私はかえって寄る辺を失うようだった。彼らがすべてだった私にとって、彼らを失うことは他では埋めがたい大きな喪失だった。

如何ともし難い状況に陥ったとき、いつもお世話になっている盟友が「その人だったらどうするかを考えて行動してみるといいよ。だんだんとひとりで立てるようになってくるから」と教えてくれた。

その言葉にすがるように、困ったときは好きだった人を思い浮かべて、私の中にある彼らに則って選択した。それらを反復するうち、私の中の彼ら、すなわち神様を私がトレースしていった。

読書もとても役立った。

それまで参照先にしていた他人を、本にスライドできたことは私にとって革命だった。当たり前のことだけれど、本は人間ではないので攻撃してこない。しばらく放っておいて、気が向いたときに開いても嫌な顔せずに真剣に向き合ってくれる。他人と触れ合う器官がヒリついているときでも安心して対話できる存在に、私はすっかり夢中になった。

私はだんだんと回復してきて、自分で自分のことを決められるようになった。その頃になると、不思議なことに、自分の口癖や一挙一動にまで彼らを思い出すようになっていった。

そうしている間に、かつて神のように信仰していた人たちの存在は薄らいで、気付けば私だけが私の中にいた。

私は、私の神様になった。

自己批判と他責のはざまで

しかし、気持ちが回復してくると、今度は激しい嫌悪感が私を支配した。

どうしてあのとき、あんな行動をしたんだろう。

どうしてあのとき、あんなことをされなくちゃいけなかったんだろう。

盆を返した雨のように鋭く降ってくる他責の感情は、皮膚をザクザクと刺した。嵐が過ぎ去った後は、ずぶ濡れの服と靴下に惨めな気持ちにさせられた。

傘をさして、他責をただ傍観していればよかったのかもしれない。

でも、そうしたくはなかった。

好きだったはずの人に対する憎悪が全身を侵して、そっくりそのまま自分へと反転する。

 

彼らが私にしたことが「悪い」ことだったとしても、自分が彼らをある種「利用」させてもらっていた面を認めないことはフェアではないと思った。

認めないことで、ずるくて弱い人間に留まることが嫌だった。

泥だらけになった幸福な記憶を抱えて生きていきたくなかった。

何より、彼らをあんなにも求めていた自分を否定したくなかった。

彼らをあんなにも求めていた理由が知りたかった。

身体に埋め込まれた記憶がこの街に散らばるトリガーに呼応して爆発するたび、呻きながら本に手を伸ばして自分の眼前まで引っ張ってきた。降ってくる記憶を振り払うように走った。

本と対話し、自己批判と他責を繰り返してきたある日、ふとした瞬間に「答え」は降ってきた。

私は彼らが好きだったという以上に、彼ら自身になりたかったのだ。

そして私はもう、彼らの成分の多くを身体に取り入れているじゃないか。

そう思うと、自己批判と他責の振幅はみるみるうちに小さくなっていった。

もう会えない人の一部を吸収した我が身がより一層愛おしくて、ギュッと抱きしめた。

恋が成就しなくても成仏させることはできる

信仰のような恋から「脱会」して、尚且つ自分の足で生きていくのは修羅の道だ。何かを強く信じてきた人が、信じる対象を失ったとき、どうやって生きていったらいいかわからなくなるのも当然だろう。

ましてや、自分が信じていたものが、全身全霊をやってきたことが間違っていたかもしれないと思うことには内向き外向き問わず、耐え難い責め苦がある。しかし、その葛藤から目を背けなければ、その恋は無駄にはならない。

もっとも、恋なんて元来無駄で、無意味で生産性がなくて頭が沸いて合理的な判断もできなくなり、社会から忌み嫌われて当然の行為なのだから「活かそう」だなんてナンセンスな気もする。けれど、その恋が「エンタメ」でも安らぎでもなく、「信仰」だった場合には徹底的に向き合う必要があるのではないだろうかと私は思う。

それは冒頭の一節のように、その「信仰」が「堕落」になるから、すなわち自分の弱さの責を「神」に転嫁するだけのご都合主義になるから、というだけに留まらない。放っておくと何もかもを投じた自分の念が数年後に化けて出るからだ。後々苦しまないためには、気力と体力が許す限り、「神」と、すなわち「神」を通して見つめていた自分自身と膝を突き合わせたほうがいい。それこそが「信仰」の意義であると、私は過去5年間で身を以て感じた。

もっとも、これは「信仰」の恋をしてしまった私への処方箋であって、すべての人の、すべての恋において、修行のごとき自己批判をする必要はないだろう。先に触れた盟友も「まじめで仕事のできる人ほど恋愛を『反省』しがちだけれど、相手も出会った時期も何もかもが違う中で仕事のようにPDCAを回すことはできないよね」という主旨の話をしてくれた。

もしも次に恋をすることがあったら私も、楽しかったり安らげたりする恋ができたらいいなと思う。そのときは「神」ではなく、人を人として愛せるようになっていたい。私はもう、自分の外側に神様を求める必要がないのだから。

illustration :Ikeda Akuri

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