結婚していた人を除いてはもう5年ほど、お日様の下で手を繋いで歩ける関係の人がいない。付き合うという形式は窮屈なので、どの箱にも仕分けられず曖昧なままでふらふらしているほうが居心地が良いとも思っている。本当にそう思っている。ただ、それとは別で、過去の記憶がふと落ちてきて、耐えがたい不安と苦しみに襲われる夜がある。それは、“公の存在”にまつわる記憶だ。

祝福の拍手で透明人間になった日

いつも嘘みたいなエピソードばかりで恐縮だけれど、今回も嘘みたいな本当の話をする。

数年前、当時付き合っていた風の劇作家の男の子がいた。付き合っていた風の、というのは、彼には別に同棲している恋人がいたからだ。彼は私に「俺たち付き合ってるよね」などと言っていたけれど、同時に恋人の話を私にもしていた。彼がなんだかんだ言っても彼女のことが好きで、別れないのも知っていて、全く寂しくなかったと言えば、嘘になる。でも、私との時間は私との時間だ。私と彼女は同じではないし、優劣ではないと思っていたから関係を続けられた。私にとっての最優先事項は彼の恋人になることではなく、できるだけ長きに渡って、彼と一緒にいることだった。

劇作家だった彼は、公演前になると精神が不安定になり、私を呼び出しては不安や愚痴を吐露したり、アイデア出しに付き合ってほしいと言ってきたりした。私はそのたびに話を聞いたし、ない知恵を絞って脚本のアイデア出しに協力した。恐らくは恋人の前ではカッコいい自分であろう彼が、弱い部分を見せてくれることに、正直なところ優越感のようなものを感じていたところもあるかもしれない。彼のためなら何でもした。彼のためになれるのがうれしかったし、彼を支えられているという自負がまた私を支えた。

そして迎えた公演当日。観に行く日時を特に決めておらず、思い立った日に急に行くことにし、当日券を買おうとチケットカウンターに並んでいるときに彼を見つけた。チケットを買ってから彼に駆け寄り「今日楽しみにしてます」と声をかけると歯切れが悪そうに「あぁ」とだけ言った。明らかに狼狽する彼を見て、彼女が来てるんだなと察し、目で「わかった」の合図を送って席につく。狭い会場で座っているのも居心地が悪かったが、チケットの払い戻しもできないため、観たらとっとと帰ろうと決めて上演開始を待った。

公演は大成功だった。今まで観てきた彼の作品の中でも一番おもしろくて、笑ったり泣いたり感情が目まぐるしく回った。私のアイデアも採用してくれていて、今度会ったときはその話をしようと思った。カーテンコールで満面の笑みを浮かべる彼の表情に癇癪を起したり不安そうにしたりしていた彼がオーバーラップして泣きそうになる。来た当初の居心地の悪さもすっかり忘れていい気分で席を立とうとしたとき、演者の女性の一人がステージ上に走ってきた。

 「皆さん、お帰りになろうとしているところすみません。実はこの舞台は主宰のAはもちろんなのですが、ある方のご協力がなければ成立しませんでした」

嫌な予感がした。席を立ちたかったが、あいにく私は真ん中の席で出ようにも出られない。女性は話し続ける。

 「それはAさんの恋人のBさんです。Bさんは、主宰のAが制作で苦しんでいるときも献身的に支え続けてくれました。主宰のA、Bさん、どうぞ舞台へおあがりください」

そうして、彼と彼の恋人は舞台上に上げられた。もうダメだ。手遅れだ。逃げることも目を瞑ることもできず、私の視線は彼を追っていた。彼は私を認識したうえで、私を完全に見ないようにした。私は彼を見ていた。彼は私が見えないように振る舞った。いないものにした。演者の女性は叫んだ。

 「今回の公演はBさんなしでは成立しませんでした。この舞台は二人の愛の結晶です。盛大な拍手をお送りください!」

狭い会場一体に響く拍手の音が私の身体を包んだ。その瞬間、私の輪郭が薄くなるのがわかった。スポットライトは照れくさそうに笑うBさんと、ばつが悪そうに顔を引きつらせる彼に当たっている。こんなできすぎたシチュエーション、原稿用の嘘だと思うだろう。むしろ嘘であってほしかった。祝福の拍手で透明になっていく折、ここ数年で正式に付き合ってはいなかったいろんな男の人たちの顔が走馬灯のように脳に浮かんでは消えていった。そういえば、あの人のときも、あの人のときも、私がこうしてスポットライトを浴びるような場面はなかった。明るい時間に外で手をつなぐことはなかったし、他に彼女がいる人もいて、そのことをみじめに思うことはなかった。でも、本当はあのときも、あのときも、私はずっと透明だったんだ。

拍手をすることもできず、目を瞑ることもできず、私は舞台を見ながらその場に座り込んでいた。鳴りやまない拍手の中で、私は私の肩から腕をさすり、必死に存在を確かめていた。

結婚して知った、公になることの幸せと特権

それからというもの、私はとにかく「公」の存在になることを考えて行動した。先の彼とは納得して付き合っていたので責める気持ちはない。ただ、もう”透明”になりたくなかった。基準は「正式に交際できそうか否か」だけとなり、いいなと思う人がいても彼女がいたり“正妻”になれなさそうだったりするなら問答無用。会ってダメなら次、また次と、無心で人と会って話すを繰り返していくうち、一人の男の子と知り合った。話が合うし、一緒にいて居心地が良くて、しばらく味わったことのない安心感がかえって怖くなった。しかし、拒絶しても拒絶しても折れずに待っている彼を見るうち、気づけばこちらがバッキリ折れていて、そこからは早かった。知り合って2週間で付き合うことになり、そこから1週間で婚約をして、そこから1ヵ月半で婚姻届を提出した。最初の1カ月くらいは、昼間に人目を憚らず外で手をつなぐとき、みっともないけど毎回泣きそうになった。

結婚したことを伝えると、ほとんどもれなく「おめでとう」と言ってもらえて、生きていることを祝福してもらっているような気持ちになった。何も頑張っていないのにこんなに祝ってもらって、認めてもらっていいんだと思った。誰もが無条件で私を肯定してくれる。私はもう”透明”にならなくていいんだ。あの瞬間、私は確かに舞台の上でスポットライトを受け、たくさんの拍手に包まれていた。

しかし、結婚して得たのはパートナーとの関係を「公」にする幸せだけではない。同時に私は結婚することで、”特権”を得ていた。

公になることは“特権”だということを言葉にできたのは、結婚してからだった。ふたりで昼間に手を繋いで歩けるという、私がとりわけ感じていたささやかな特別感だけでなく「結婚している」と口にするだけで力を発揮できる。仕事の場で私が結婚していることを知らないクライアントやインタビュイーに「早く結婚しなよ~」などと言われたとき、「結婚しています」と言うと、相手の目の色が変わり、急に丁寧な対応になったこと。セクハラを受けそうになったとき、「結婚しているので」と言うと、パッと手が離れたことを私は見逃さなかった。「結婚している」と口にしたか否かの違いなのに、対応がまるきり変わる。それはまるで、結婚している人が一人前で、そうでない人が半人前あるいはナメられているといっているようなものではないか。もちろん、すべての人が、結婚が偉いと思っているわけではないし、そうした権力性を感じない当事者の人も多いだろう。しかし、多くの人にそういう意識があるのだということは、結婚してからより顕著に感じられた。あのときのあの発言も、あのセクハラも、私が独身だったから、バカにされていたんだなと思ったら、絶対にこの立場を、特権を手放したくないと思ってしまった。

ただ、そうした自分の想いが過去の自分への裏切りにあたるのではないかと咎めるような気持ちはどこかにあった。結婚をしたら、そうでない人のことを慮るべきだというわけでは全くない。意見が180度変わって幸せになることだってあると思う。ただ、私自身は、公でないかたちを模索してきたはずの私が、こうも簡単に”公”に認められることを、あるいは”公”の特権の恩恵を受けることを良しとしていいのかという問いは、心を常にチクチク刺した。

それでも、失いたくないと思ってしまった。社会に”認められる”という後ろ盾は、そのくらい強固に感じられた。

まなざしから逃れるために公であり続けたかった

私が”公”を手放したくなかった理由はもう1つある。それは「まなざし」の不在だ。たとえば「結婚している」と言うだけで「判定」から免除される。幸せかどうか、可哀想でないかどうかの判定。

憐れみのまなざしは思っている以上に堪える。苦しいときはただでさえ苦しいのに、哀れまれないようにするために、憐れみをひっくり返すほどに気丈に振る舞わなければいけない。独身のときはいつもそうだった。だけど、結婚してさえいれば、どんなに凄惨な状況でも「幸せそう」だと思ってもらえる。現に、思ってもらえた。「そうなの、幸せなの」と言って笑っていれば「納得」してくれる。もちろん自分がDVを受けたり、旦那が子どもを虐待したりするのを誰にも相談できず見つけてもらえずに苦しんでいる人のこともたくさん見てきたし、もちろんすべてのまなざしが悪だというわけではない。

しかし、私にとっては人からとりたてて視線を送られない、つまり「普通」の人間として扱われることに生まれて初めてといってもいいほどの安心感を覚えた。居心地が良かった。「普通」でない人間は“透明”にされたうえで、まなざしという暴力を受ける。そこにいることが当たり前のものとして認識されたうえで干渉もされない。どんなに自分がそのかたちにフィットしなくても、内情がどんなにひどくても、取っ散らかっていようと外からは関係ないんだから。私は、公の特権を守りたかった。ただ、当たり前に存在したかった。

公に向き合い続けて精度を高める

どんな手を使っても公であり続けるのだと、半ば執念にも似た気持ちで食い下がった8ヵ月だったけれど、私はまた公でなくなってしまった。

独身と聞いただけで目を輝かせて「結婚しなよ~」という人間に遭遇する回数も、セクハラ件数も揺り戻すように爆増した。外形的な要素の影響の大きさに笑ってしまう。

“正妻”になりたいわけではない。ただ、”透明”になるのも、まなざしを送られるのももう嫌だ。そういう、公が持つ特権は、”正妻”にならないと手に入らないのだろうか。たとえば、名前のつかない関係であっても公になること、公にならずとも”透明”にもならず、ただ当たり前に存在することはできないのだろうか。

 「あなたの幸せはあなたが決めていい、好きなように生きていい」と言うのは簡単だけれど、公の基準から反れたところに幸せを構えることはそう簡単にできることではない。もちろん”公の形式”すなわち交際や結婚といった形式が楽だと言っているわけでは全くない。ただ、無条件の肯定や権威のあるなしは、内側から外側から、良かれ悪しかれ、少なからず作用してくる。

後ろ盾が欲しければ”公”になればいいし、社会にさっさとくるりと背を向けてあらゆる批判を無視し、自分なりに生きやすい環境を整えてもいいだろう。なのに、「独立した存在でありたい、私は私だ」などとと言いながら、”公”的なものが気になり続けている。「メインストリーム的な生き方を否定するわけではなく、安心して選び取れる選択肢を増やしたい」というのは私が今も昔も一貫して発信してきたことだけれど、「その根底には結局のところ”公”への強い憧れがあるのではないか」と言われると、砂を食むような、濡れた靴下を履き続けているような、忸怩たる気持ちになる。

いつか公かどうかであるとか、”まなざし”も気にならなくなるのだろうか。わからない。わからないけれど、向き合い続けているうちに見えてくるものがあるかもしれない。

私は今日も”公”という名の銅の塊に向かって刀を打つ。コツコツコツコツ削り続けて、私自身の”公”に対する精度を高める。そして、これは私自身の過去の反省から、誰かに拍手を送るとき、たとえば拍手を送られるとき、誰かが透明になっていないか、必死に腕をさすっていないか、辺りを見渡せる私でありたい。

illustration :Ikeda Akuri