子どもの頃、わたしは東京が好きではなかった。
人混みが嫌いで、大勢の中にいると人酔いを起こすような子どもだったから、人の集まる東京なんて、行きたくないと思っていた。
東京にまつわる悪い噂も数多く聞いていた。例えば、丸の内はビジネスパーソンが群雄割拠する戦場なのだ、とか。原宿へ行ったらギャルに新語でまくしたてられる、とか。渋谷で路地一本間違えて入ったら、密売人に捕らえられ、内臓を海外に売り飛ばされる、とか。今考えるとひどい「都市伝説」ではあるものの、それだけ危険な場所というイメージがあって、子ども時分に「東京には行くまい」と固く決心をしていた。
なのに今、わたしは東京で働き、東京で暮らしている。
わたしの出身は茨城で、高校は千葉の学校。はじめてのひとり暮らしは埼玉。にじり寄るようにして東京に近づいて、昨年の夏にとうとう都内に移り住んだ。友だちと会うのも買い物も東京なので、今や、平日も休日も昼夜問わず、かつて嫌っていた街で過ごしていることになる。
東京で暮らすために、結構無理をしている。だけど離れたくはない。
子ども時代の自分が現状を知ったら困惑して、「東京って、実はいいところだったの?」と聞いてくるだろう。いや、それが、東京は必ずしもいいところとは言えない。朝の通勤ラッシュは最悪だし、昼間リフレッシュしようと外に出ても見えるのはビル、人、車ばかり。夜も完全に治安がいいとは言えない。自然も少ないし、街の装飾はぎたぎたと華美で、どうにも疲れてしまう。
東京の、液体のような流動性にも未だに慣れない。東京は絶えず変化をし続けて、目まぐるしく景色を変えていく。対して、わたしはせわしないのが苦手で、歩くのも食べるのも人より遅い。だからわたしは東京で暮らすために、結構無理をしている。
そう話したら、子どものわたしは叫ぶだろう。
「東京から離れなきゃ!」
だけど、わたしは東京から離れない。買い物するのに便利だとか、イベントが毎日あって飽きないとか、月並みな理由はいくらでもあるけれど、そうではない別の理由がちゃんとある。
東京の、ほどよい人間関係の距離感が好きなのだ
東京は、有象無象の人々を抱えて飽和している。その分、ひとりひとりには注目が集まらない。それを「砂漠」のようだと言う人もいる。たしかにひとたび雑踏に出れば、自分はなんでもないただの点みたいな存在になってしまう。誰もわたしに見向きもしないし、街なかで倒れても、交通の邪魔だと言って人は舌打ちをして、わたしの身体をまたいで行ってしまうと思う。寂しく、心の貧しさがまだまだある街だと感じる。
それでも東京らしい、人との距離感がわたしは好きなのだ。
かつてわたしは、自分の考えをそっくりそのまま理解してほしいのに、通用しなくて友人や恋人と仲違いしたことがあった。東京では良くも悪くも、自分を理解してもらえない場面が多い。それは、はじめて顔を合わせるという相手が多いからなのかもしれない。それでも、時間を経るうちに気がついた。自分をわかってほしい気持ちは、間違った期待の持ち方でしかない。
他者はわたしを知らないし、わからない。
なのに何もしないで「自分を知ってほしい」というのは、傲慢で、相手に対する甘えでしかない。知らない者どうしだから、きちんと伝えなければならない。知ってもらいたいことを言葉にして相手に示して、自分と他者との線引きをする。線引きをすることが、「相手を尊重する」ことなのだと気づいたのだ。
それ以来、尊重し合える人間関係を求めていったら、気がついたら東京にいた。別に東京を目指してやって来たではなく、結果的に流れ着いていた。東京の、ほどよい人間関係の距離感が心地いい。
だから、わたしは東京で目覚め、働き、人と出会う日々を過ごしているのだろう。