部屋の時計はただいま19:27をさしている。部屋は暗くて寒い。私は泣いている。今日だけの話ではなくて、家にひとりでいる時は大概泣いている。泣き疲れたら口の中に黙々とご飯を突っ込んで咀嚼するかトイレに行くか、毛布に包まりながら音楽を聴く。ルーティンとすら言えない実の無い時間を過ごす。365日こんな生活をしているわけではなくて一人ぼっちの日、母がいない日の話である。

自分の人生も楽しんでいる母はすごい。ずっと好きにさせてあげたい

我が家の家族構成は至ってシンプルで、母と私の二人きり。ひとり親で大変ね、と思うかもしれないが特段、私達に可哀想なエピソードは無い。家計はそこそこ苦しいし、バタバタな平日を駆け抜けた週末の部屋はそこそこ汚いし、私達はそこそこにしたいことが出来ている。

よくあるそこそこの家庭に見えるから、私に父親がいないことに周りは気が付かない。でも、それって母の努力の結果だよなと思う。父と母が普通にいるように見える生活を、何にも欠けていないように見える生活を、実際は母がひとりで補い全てを切り盛りしているのだから。私の母はすごい。

私の母はすごいので、母親としての任務をこなすのと同時に自分自身の人生も楽しんでいる。綺麗にメイクをしてお洒落をして友達とカフェに行って恋をして笑って泣いて遊んで食って寝る。エネルギッシュでマイペースで無邪気なところが母の魅力であるし、自由であればあるほどその魅力が花開くのであればずっと好きにさせてあげたい。

寂しさをぶつける相手がいなくなり、泣き喚く事が許されない年齢に

母が仕事に行っても遊びに行っても、私が小さい頃は寂しくて泣き喚くといつも抱きしめてくれる曽祖母がいた。母がいなくても幼い私の周りには必ず他の誰かがいて、寂しい気持ちをぶつけることが出来た。けれど曽祖母が亡くなって、気が付けば私はもう足をバタバタさせながら泣き喚くことが許される年齢では無くなった。

私が成長するにつれて母が家にいる時間は年々減っていった。私のことをアダルトチルドレンだという人が時々いる。育児放棄されたわけでもないし、虐待をうけたわけでも無い。けれど、ただただ私は寂しさを紛らわせる為にさっさとアダルトにならざるを得なかった。「寂しい!ママに会いたい!」と口に出すことが出来ないまま、孤独感が満たされることのないまま。いっそのこと言ってしまった方がいいのかもしれないが、泣くほど寂しい思いを娘にさせていたのか、と母を困らせるのも母が彼女自身の為に使っていた時間を急に大幅に私に割き始めるのも、それはそれでとても悲しいことだと思ってしまう。母に甘えるタイミングというのを私は昔に逃してしまったようで、今はその取り返し方もよくわからない。

母の時間を私に割かせて困らせるのも、それはそれでとても悲しい

私は健康に育っているし、自由もある。母が私にくれる愛情は、世間一般の母親像として妥当な量なのだと思う。きっと世の母子家庭や父子家庭の中には、もっと辛く厳しい生活を強いられている人たちがいる。家族の温もりを知らない寂しい子供がいる。こんな私が寂しいなんて言ってはいけない。比べる必要なんてないのに、我慢する必要なんてないのに、そうやって自分自身の口を塞いで生きてきた。

誰とどこに出かけているのか、いつ帰ってくるのかわからない母をただただ家で待つ時間は何十時間にも長く感じる。とてつもなく寂しくて悲しくて辛い。けれどおもちゃで一度遊び始めると他のことを忘れてしまう赤ちゃんのように私の脳みそは適度に幼稚で、母が帰ってきたとたんに嬉しくてあったかくて幸せになる。寂しさなんて忘れる。笑顔になった私を見て母は安心して出かけていく。すると寂しさを思い出す。独りぼっちにしないで、と本当は言いたいけれど私がそれを言える日は来るのだろうか。
いつかは勇気を出して「一人ぼっちの時間が寂しかったんだよ」と伝えたい。「ママと過ごす時間が大好きだよ」ということも。

時計を見る。もうすぐ20時になろうとしている。団地の階段を上ってくる音が聞こえる。鍵を鞄の中でがちゃがちゃと探す音も。カピカピに乾いた目尻の涙を拭く。きっと数秒後には笑顔の母が部屋に入ってきて、私が抱えた寂しさは緩々と薄まる。