私が引退の年に入部してきた高校の後輩から「卒業しました!」とメールがきた。
「おめでとう。」
月並みなセリフを打ちこみながら、そうか、私も卒業して2年経つのか、と思う。2年という月日が長いのか短いのかはわからないけれど、もうグランドへ足を運ぶ理由がなくなってしまったのだと考えると、それなりに重みを感じる。

部活の同期は今もとても仲が良いが、集まれるのはせいぜい年に2回ほどだ。
毎日必死になってグランドを駆け回り、水道でシャンプーをし、部室で監督の悪口を言い、重いエナメルを背負って帰っていたあのころと違って、会うことは“日常”から“特別”になってしまった。話題はいつも「最近はどう?」から始まる。

卒業後の進路は様々で、4年制大学に通っている途中の子もいれば、春から働く子もいるし、結婚した子もいる。みんな、自分が選んだ道に邁進し、それなりの結果を出している。
それらをたのしそうに話し、たのしそうに聞くみんなを見ていると、素直に“いいなぁ”と思うが、ひとたび「咲月は?」なんて話を振られてしまうと、穏やかだった時間は突如としてデュエルタイムに変わる。

前進し続けるフリ、積み重ねる小さなウソ

私は通信制の大学とバイトをダラダラとつづけながら、金にならない文章を書いているだけ。そのくせ“私も進んでいると思われなくてはいけない”と思うから。陳腐なプライドを保つために、慎重に言葉を選ぶ。

「賞に応募してはダメな日々だよ~。」と言ったり、バイト先の放送局のことを誇張して話したりすると、みんなは「咲月はすごいね~。」とか「かっこいいね!」と言ってくれる。
ほんとうは気力と筆力が尽きて未完に終わったボツ原稿ばかりで、賞になんてほとんど出してやいないし、芸能人と仕事をしているといったって、ただのたくさんいるうちのスタッフの1人なのに。

全員で優勝を目指していたあのころと同じように、たとえ向く方角は変わっても、みんな止まらず進んでいるのだと、思うために、思わせるために、私は小さなウソを塗り重ねる。
誰よりも本音で付き合ってきたはずのかつてのチームメイトたちに、1番ウソを吐くようになってしまったことが苦しいのに、すこしずつ慣れてきている自分がいて、嫌悪感は募る一方だ。

時々、なにかの拍子に塗装が剥がれてしまって情けない自分がみんなの目にさらされる、なんてことが起きたら私はウソをやめることができるのだろうかと想像する。
恥ずかしくて耐えられないだろうと思うと同時に、いっそそうなってしまった方が楽かもしれないとも思う。
ウソという鎧はあまりに重くなり過ぎた。きっともう、身に着けて立っていられる限界に近いところまできている。
自分の体裁を守るために吐き始めたウソはたしかに他人の目線からは私を護ってくれているけれど、それが内側から私自身をむしばんでいるのもまた事実だ。

私を苦しめるウソを、私をすくってくれるほんとうにしたい

ひとり家路につく時、その日吐いたウソを振り返る。そして気づくのは、私を塗り固めているウソのひとつひとつは、実はみな、私の理想なのだろうということだ。
こう見られたい、こうでありたい。そういう思いが私にウソを吐かせ、現実とのギャップが私を苦しめているのだ。結局、私をすくえるのは私しかいない。

昨日、こんなウソを吐いた。
「ウソなんて吐かなくても良いように生きてんの。」

そのウソにどんな理由があっても、どんな効果をもたらしても、ウソがどこかでほころびを生むのはたしかだ。
ウソなんて吐かなくても良いように生きたいと思う。私を苦しめるウソを、私をすくってくれるほんとうにしたい。
潔白でいたいわけではなく、他人を傷つけないためでもなく、ただ、自分を好きでいるために。

「私ね、私を好きになりたいの。」
そのために。