私はSNSが嫌いだった。
SNSの「いいね」や「フォロワー数」は自分の存在価値を表しているように感じたからだ。
SNSでの周りからの反応は私の存在価値を表しているのではないか
SNSでは仲の良い友達に限らず、あまり関わりのない別のクラスや他校の知り合いとも気軽に繋がることができる。学校生活を楽しんでいる様子の何気ない人物写真から、オシャレな観光スポットに遊びに行った映える写真まで、さまざまな写真をフォロワーと共有する。
SNSを使う上で、まず目に入ってくるのが「いいね」の数だ。
ハワイのような有名な観光地に行った映える写真と、晩ご飯のカップラーメンの食べかけの写真をアップしたところではいいねの数に差が出てくることは理解できる。
しかし、一緒に撮影した文化祭の集合写真をアップしても、いいねの数に差が出てくるのだ。クラスでも社交的で容姿がとても可愛いと言われ人気的なポジションにいる女の子と、その他の類に位置している私とでは、同じ写真を挙げてもいいねの数が大きく変わってくる。
沢山のいいねが欲しいといった願望があるわけでもなく、注目されることが良いという訳でもない。むしろ、あまり注目されることは苦手だ。
それにも関わらず、SNSでの周りからの反応は私の存在価値を表しているのではないかと感じてしまう。同じ内容を発信しても、周りからの反応に大きな差がある。
もし私とその子が溺れていて、同時に「助けて」と発信したとしても、私の声は周りに届かないのではないかと感じた。
SNSは見たくないものまで、自分の視界に入ってしまうことがある
当時高校生の私は、SNSによって自分の存在価値は数値化されて表されているのではないかという恐怖からSNSを辞めてしまった。この考え方は周りからの評価に振り回されていると自分でも思う。
それでもSNSを辞めたことによって気楽になった部分がある。
SNSを辞めたことによって、投稿への反応を周囲と比較する必要がなくなり、そもそも自分が周りからいいねといった数字によって評価されずに済んだ。もうすぐ大学を卒業する現在では、SNSは登録しているが、アカウント上では匿名で誰とも繋がらずにいる。自分が見たいと思う公式アカウントだけをフォローし、独り言や情報収集として利用している。
SNSで人と繋がらないことによって、周りと自分を比較せずに済む。誰とでも繋がれることはSNSの最大の利点であるが、同時にデメリットであるのかもしれない。見たくないものまで、自分の視界に入ってしまうことがある。自らアカウントを作成し、知人とフォローし合い、見たくないものを見て精神的に疲弊する必要はないかと思う。
SNSで誰とも繋がらないのは本来の利用の仕方ではないかもしれないが、これが自分にとってのSNSとの付き合い方だと感じる。