「おかゆちゃんは、きょうだいとかいるの?」
「上にお姉ちゃんが2人いるよ」
「へー、意外!何歳なの?」
「1番上が25歳、2番目の姉が22歳かな」
「えー!結構年離れてるね、すごーい(笑)もう働いているんだね!」
私が小学生くらいのとき、1番上の姉・春子は働き初めて間もない頃だった。2番目の姉・秋子は、たしか、親と少しもめて、春子よりも早く実家を出た。
その回答の先に待っている、「年が離れてるんだね!」が嫌いだった
姉たちと私は、腹違いの姉妹だ。母親が異なることは、小さい頃からなんとなく知っていた。顔も知らない人の仏壇が我が家にはあって、時折線香の香りがした。お盆になると、顔も知らない人のお墓に花を手向け、手を合わせる。春子が1回、お墓に水をかけていたとき、「これが私の本当のお母さん・・・」とつぶやくように言っていた。
それが当たり前だったから、違和感もなかった。家族ってそういうものだと思っていた。でも、小学生の頃から、「きょうだいは?」「姉が2人」と答えた後、「何歳?」と聞かれるたび、答えるのが嫌だった。その回答の先に待っている、「年が離れてるんだね!」という言葉が嫌いだった。「すごく上のお姉ちゃんだったら、結構かわいがってもらえるんじゃない?」という言葉が嫌いだった。
なんで私は違うんだろう。周りの友達は、仲が良くて、遊んでもらえて
周りの友達は、お姉ちゃんやお兄ちゃんと仲が良くて、遊んでもらえて、2歳~多くても7歳くらいの年の差で、そして、同じ両親から生まれている。なんで私は違うんだろう。1番上の姉も、家を出ると年末にちょっと帰ってくるだけになった。だから、一緒に公園で遊んだ記憶はほぼない。マンガの貸し借りをした記憶もほぼない。
いつしか、あまり顔を合わせなくなっていくうちに、私は姉たちが帰ってきても、うまくしゃべれなくなっていった。そのせいか、毎週日曜日に見ていたアニメ『ちびまる子ちゃん』の「まる子」と「お姉ちゃん」が羨ましかった。ケンカもするけれど、いつも一緒にいて、仲良し。これがいわゆる「家族」で、「姉妹」なんですよ、という感じが、アニメは好きだったけれど、少し遠い世界のような気がした。
私が高校生くらいになると、秋子は両親との確執が解消されたようで、たまに実家にふらりと帰ってくるようになった。LINEを交換すると、なんだかめちゃめちゃ優しい。春子は、相変わらず年末にしか帰ってこなかったが。
「普通の家族」幻想への気づき。もしかして、私、誤解してた?
私は大学生になって、卒論を書くのに家族社会学に触れた。私はメディアにおける家族の表象について研究していたので、自然と「そもそも家族とは何か」、「メディアで描かれる家族は、『普通の家族』なのか」といったことについて考えるようになった。そしてそこでの学びは、私をそれまで縛っていた「普通の家族」幻想から解放してくれた。
「家族」についての本を開くと、多くの家族研究者は、ぴしゃりと言う。
「『普遍的な家族』なんてものはない」
「家族」は、どこにでもあるものだが、「これぞ家族」と言うことは難しい。姻縁、血縁、同居は、確かに、ある集団を「家族」として見る指標にはなる。だが、個人が思い描いている「家族」は、その条件にぴったりあうどころか、「血は繋がっていないし結婚もしていないけれど、家族だと思っている」場合もある。どの視点で見るか、誰が見るかによって、「家族」は変わってくる。
さらに、今でもテレビドラマなどのジャンルで用いられる「ホームドラマ」の形成の歴史を調べてみると、「仲良く食卓を囲む家族」というイメージは、高度経済成長期に流行ったが、その後はそのような「ほのぼの家族」だけでなく、様々な形態の家族も描かれるようになったという。あの『ちびまる子ちゃん」は、そんな「ほのぼの家族」がテレビで描かれた時代が背景になっているのか・・・。
もしかして、私、誤解してた?
小学生の時に憧れた、同じ両親から生まれた、仲の良いきょうだい像。「まる子」と「お姉ちゃん」みたいな姉妹が、「普通の家族」で、「普通の姉妹」だと思っていた。だから、「お姉ちゃん」みたいじゃない姉たちが、「まる子」みたいに「普通」でない妹の自分が、嫌だった。
でもそれって、なんか違うんじゃないか。だって「普遍的な家族」なんかいないじゃん。「まる子」も「お姉ちゃん」も、実際のところは詳しく知らないけど、あれが「普通」だなんて、誰も決めてない。そう思い込んでいたのは、自分でしょ?
「姉らしさ」を求め、自分の中で理想の「普通の家族」を作っていた
姉たちが「姉らしくない」のではなく、私が姉たちに「姉らしさ」を求めていたのだと思う。私は自分の中で理想の「普通の家族」を作り出して、自分が「普通でない」妹であることを、隠したかっただけなのだ。
血の繋がりがあるべき
家族は仲良くあるべき
きょうだいは年の差が近くあるべき
姉妹は何でも話しあえる存在であるべき
べきべきべき。べきってなんだよ。こっちにだって色々事情があるんだよ。春子と秋子は私との関係上「姉」であるだけであって、1人の人間なんだ。人間に「普通」なんてない。
社会人になった今なら、小学生の頃姉たちが実家からも通勤できるのに家を出た理由がわかる気がする。姉の心の奥底まではわからないが、きっと社会人になってから、自立とか仕事とか恋愛とか、自分で決めていきたいことがあったんじゃないか。実家は心地良いが、その分甘えてしまう。私も実家から通えるけど、きちんと1人で生活できるようにしなきゃと思うし、お金が貯まったらとりあえず家を出たい。親は結婚するまで家にいろと言うタイプだから、姉たちと同じように一悶着あるだろう。
でも、年末年始は集まろう。できれば、墓参りもしよう。
それは、私が姉たちのことが好きだから。家族として、人間として、やっぱり好きだから。姉たちを産んでくれた「お母さん」に、感謝しているから。年末年始墓参りくらいしか、家族そろったことないけど、だから、集まりたいと思うのだ。
私にとって、家族ってそういうものだ。