社会人になって3年目。恋愛はそれなりに経験し、仕事にも慣れ、会社では中堅社員に差し掛かろうとしている私は今、自分の本当の弱みに気付いてしまった。
大学4年生の就職活動中に散々自己分析し、履歴書に何度も書いた、弱みとはまた別のものだ。
“いい人”でいるために努力を重ねるのに、いざ恋人から愛されたり、上司から褒めてもらっても何も感じられない。
“いい人”コンプレックス。向き合うのが怖く、長年目をそらしていた問題だ。

その女性というのは、何を隠そう私自身だ

“いい人”といえば、男性と恋愛の話をすると必ずと言っていいほど話題に上がるいい女。
「たかしの彼女、あいついい女だよな」とかなんとかそういう類の話だ。
男性が語るいい女というのは2種類あって、一つは下ネタ的なアレと、もう一つは理解がある彼女。この話の場合のいい女とは、後者の方を指す。

例えば、浮気はどこからか?なんていうよくある話題から発展し、大半の男性は、異性と二人きりでご飯行くことですら禁止されている、とか大人数の飲み会でも異性がいたら即アウト、とかそれらの言動に対して彼女の監視が厳しいことへの不満を漏らす。
しかしそんな中でも、束縛は一切しない彼女を持つ男性がグループに一人は存在する。そしてそのような女性はたたえられ、彼氏である男性はうらやましがられる。

私はそんな会話を聞きながら、その女性を健気に感じてしまい、いらだちすら覚えてしまう。
どうして自分を殺してまで好かれようとするのか。どうして自分がどう思うかよりも、周りにどう思われるかを気にして怯えているのか。
その女性が心の奥に秘めている感情の全てが見えてきてイライラしてしまう。

その女性というのが、何を隠そう私自身なのだが。

嫌われる前に、“いい人”のままさっさと逃げてしまいたい

話は少し変わるが、一般的に喧嘩は良くないことだと言われている。もちろん私も幼い頃、両親や先生からさんざんそう教わってきた。けれど不思議なことに大人になるとそうでもなさそうだ。

私は、恋人と分かり合えず喧嘩になりそうな雰囲気を感じると、すぐに別れを告げてしまうのだが、その度に「恋人ともなれば言い合いの一つや二つは仕方がないし、話し合いをして乗り越えることは当たり前だ」「どうして向き合おうとしないのか」と言われてしまい、途方に暮れてしまう。難しい。
理解ができない。そもそも、喧嘩は良くないことだとみんな分かっているのに、どうしてわざわざする必要があるのだろうか。

彼氏の理想の彼女になりたいと思い、努力する。恋人にとってのいい人でもいたいし、先ほど述べたような、飲み会などで話題に上がるいい女にもなりたいのだ。だから喧嘩をしないように、我慢するのは当たり前ではないのか。

怒っている恋人の顔をボウっと眺めると、好きとか嫌いとかという感情は皆無になり、逃げたい、としか思わなくなってしまう。嫌なところを見られて嫌われる前に、“いい人”のままさっさと逃げてしまいたい。

自分が相手にとって理想の“いい人”になりたい。その欲はますます強くなる。

母にとっての“いい人”でありたいと常に願っていた

そう思うようになってしまったのには、思い当たる節がある。幼い頃から母にムチとして厳しい躾と、いい子だと褒められるほんの少しのアメを与えられ育った私は、母に認められたい、母にとっての“いい人”でありたいと常に願っていた。しかし、とうとう願いが叶わないまま家を出たため、大人になってもなお、ずっとその思いを抱えながらここまで生きてきてしまったのだ。母以外に褒められても、愛されても何も感じられない。一度でいいから、母に認められたい。
悩みに悩んだ末、この経験を自分自身の強みに変えようと誓った。
母から与えられた試練を乗り越えてきた経験を活かし誰かの役に立つことで、生きる意味を見いだすことができるのではないか。

母が私に望んだ、人に影響を与えられる人、人を助けられる人になるために、どんな形でも1冊の本を手掛けるという目標。もし達成できたら、長らく連絡をとっていない母に一番に報告をすると決意した。そして自分自身を許し、母を許すことができるのだろう。必ずその日はくる。だから、どうか長生きしていてほしい。