以前、家族の意味について考察したエッセイを投稿した。家族というもののありがたさや意味を見失っていた私は、その自分なりの答えを、ぼんやりとではあるが定義する事ができた。
最近耳にしたセクハラニュース。私はすごく怒っていたけれど
最近、ステイホームしている。自宅にいて、家族と過ごす事が多くなった。そこで、イライラが増えている。例えば、私はニュースを見ると議論したくなる。何が問題か、どこがいけないか。けれど家族はそんなシリアスな話は好まない。もっと軽い、笑えるような話が好きなのだ。
決定的だったのは、最近耳にしたセクハラニュースだ。とあるテレビタレントが、女性蔑視的発言をした。しかも経済的社会的混乱の中で、女性の苦境を利用したいというような発言で、他者の尊厳そのものを冒涜するような胸糞悪いものだった。
私は、聞いた当初から怒っていた。ものすごく。その話題が家族の間であがったとき、私はいかにそれが最悪なものかを(当然のごとく)みんなで共有するのだろうと思った。しかし家族の間で話題になったのはむしろ、そのような考えを<公式の場で発言する>という点だった。私はそのような考えを<持つ>ということ自体問題だと思っていたのだが。
家族と道徳観念が一致しないとキツイ時がある
考えてみれば、そういう噛み合わない事例はいっぱいあった。
両親、祖父母含めた親戚、先生や友人、私と関わりを持っている人は必ずしも私と価値観が一致するわけではない。
でも、それが道徳観念だとキツイ時がある。
昔友達が、「自分の祖父が特定の国に激しい差別的な感情を持っている」と悩んでいた事があった。その子と私は歴史の授業を一緒に受けていて、近現代史を二人で一生懸命勉強したのを覚えている。その子は、祖父が大好きだった。でも、祖父の根強い差別的な姿勢を受け入れられず、困っていた。
価値観が違うなら、適切な距離を置くのがいいだろう
私は、結局、受け流すしかないのだと思う。政治的な思想、職業選択、結婚や出産その他に対する価値観など。家族だとはいっても全然違う価値観を持つ事がある。特に親と子で違う時は、辛いだろう。法科に進んだ後、保険局に勤めながら作品を執筆してそれでも認めてもらえず、抗議の手紙を100枚も送る、なんて昔からよくある事だ。(カフカ)
そして、適切な距離を置くのがいいだろう。<距離>は大事なものだと思う。もっとも、私もしょっちゅう距離を詰めすぎたり広げすぎたりして面倒なことになっている。
ひっそりと、ステイホーム期間を過ごそうと思っている
最後に。「かがみよかがみ」は主に20代の読者やエッセイストで彩られている。だから、ちょうど、親から扶養してもらう生活から、自立生活への移行期な人が多いと思う。(私も)
家族と一緒に暮らしている間は、価値観が違くたって仕方がない。ただ、色々なものを借り -特に経済的に助けてもらって- 生きているのだから、ある程度遠慮して過ごすのも大事かなと思う。
借りぐらしのアイノカオリッティは、自立への道を未だ探し中だが、とりあえずひっそりと、ステイホーム期間を過ごそうと思っている。
家族という他者と過ごすことの難しさ。お互いの共通を見つけて、話題を探し時間や行動を共にしたり、距離を置いて一人になったり。共存していくとは、そういうことかな、なんて思ったりするこの頃である。皆様どうぞ、お大事に。