留学中、太陽が遅くまで眠らない季節が訪れると、授業の後によく友人たちとピクニックを開いた。スーパーでスナック菓子とかドライフルーツとかを適当にまかなって、足早に公園へと向かう。夏の匂いの立ち上る草原の上にシートを広げ、各々が持参した食料や飲み物を袋から出してゆく。そこで現地の友人たちがよく持ってきたのは、手作りのパンやお菓子だった。お手製のピザ、タルト、フォンダンショコラ…。ティラミスを作る猛者もいた。そして、よかったら食べてとはにかむその顔を見ながら、口の中に広がるその特別な美味しさを存分に堪能しながら、わたしは思ったのだ。「ああ、豊かだなあ」
作らなくても済むものにあえて時間をかけられる精神と時間のゆとり
「豊かさ」という言葉がある。「豊かさ」って、いったい何によって測られるのだろう。お金をどのくらい持っているかどうか?いやいや、資本主義に染まりすぎ。精神的な充実度のことでしょう?きっと人によって、その定義は異なるだろう。「豊かさ」は、十人十色のものだ。
でもわたしにとって、「友人と集まるピクニックで手作りのお菓子を持ってくる類の豊かさ」は、日本でほぼ見たことのないものだったので、初めて友人の手作りのお菓子を食べさせてもらったときは本当に、叫び出しそうになるくらいの衝撃に背中を貫かれた。というか、本当に作ったの!?すごすぎない?!と、叫んでいたと思う。わたしにとって手作りのお菓子やパンを作るという行為は、「非日常」の中でしか行われないものだったから。
わたしにとっての「日常」は、消化すべき課題や稼ぐべきお金や交わすべきコミュニケーションによって、時間があっという間に消滅してしまうものだった。手作りのパンとかお菓子とか、正直時間がもったいない。その時間をもっと有効活用しようよ。その基準で生きてきたわたしにとって、作らなくても済むものにあえて時間をかけられる精神と時間のゆとりは、確実に「豊かさ」だった。
唐突に現れたコロナによる外出自粛という「非日常」
さて、前置きが長くなったがようやく本題に入ろう。そんなわたしに、唐突に「非日常」が現れたのである。コロナによる外出自粛という「非日常」だ。そんな「非日常」の中で、わたしが時間を潰すために、心の隙間を埋めるために新たに生み出した趣味。それがお菓子作りだった。
わざわざ作らなくても済むものを、あえて自分の手で時間をかけて生み出すこと。お菓子づくりは科学だ、目分量で材料を加えることは許されない。オーブンで焼いている20分も、ときどき焼き加減を見に行ったりするので他のことに集中したりできない。しかもどうせすぐ食べちゃうし。まったくもって時間の無駄である。それでも。
それでも、時間をかけて焼いたエッグタルトやアップルパイの表面を滑る茶色いツヤを目にしたとき。口の中でパイがさくりと音を立てたとき。家族が「天才じゃん」と大仰に喜んでくれたとき。わたしは、作ってよかったなあと心から思う。確かに、効率的ではないし、この時間を勉強とか在宅のバイトとかに当てた方が役立つのだろうなとは思うけれど、それでもこの充足感は、効率を追求していたときには得られなかった類のものだ。そしてこの感覚は、紛れもなく「豊かさ」なのだとわたしは思う。
いつか「日常」が戻ってきたとしても忘れたくはない「豊かさ」
外出できなくなって、生活に余白ができて、ようやく感覚として知ることができたこの「豊かさ」を、わたしはずっと忘れないでいようと思う。お家でお菓子を作るような「豊かさ」は、確実に心を支えてくれる。日々に色を増やしてくれる。だからわたしは、いつか「日常」が戻ってきたとしても、ときどきオーブンの前で焼き加減が気になって、そわそわするような時間を過ごしたい。